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中国古典『貞観政要』に学ぶ持続可能なスタートアップ組織論

NOTES

「守成は創業より難し」という格言があります。

既にある国や事業を守りながらより大きく成長していくこと(守成)は新たに天下を獲ること(創業)よりも難しいことを言い表したものですね。元々は国の政体を指して引用されることの多かった言葉ですが、我々スタートアップや企業経営においても全く同様のことが言えるのではないかと思っています。

そこで今回は、上記格言の出所でもあり、日本でも北条政子や徳川家康らが座右の書として愛読したという歴史的名著『貞観政要』(中国唐代の長期政権の礎を築いた2代目皇帝・李世民とその側近たちの言行録)から、現代に生きる我々が長く持続する強い組織を作る上で参考になるエッセンスを抽出してみたいと思います。

中国に学ぶといえば、近年ではAlibabaやTencent、Pinduoduoなどのテクノロジー企業や彼らの提供するデジタルを起点とした秀逸なビジネスモデルがまず最初に思い浮かびますが、個人的には中国三千年の歴史と言われるその膨大な過去データにこそ時代を超えて共通する普遍的な知恵や教訓が詰まっていると考えています。

読み取れるエッセンスが豊富すぎて取捨選択に難儀したこともあり、まとめとしての過不足感は否めませんが、各自の興味関心に従って適宜強弱をつけながら読み進んでもらえればと思います。

『貞観政要』の概要と時代背景

貞観政要は、中国唐王朝の第2代皇帝・李世民とその側近たちの言行録を、文字通り政治の要諦として編集したものです。貞観(じょうがん)というのは元号であり、唐代289年の長期政権の礎を固めた平和な治世として名高く、「貞観の治」と呼ばれ現代に至るまで評価され続けている輝かしい時代でもあります。

唐の一つ前の王朝といえば隋(ずい)ですが、この隋の皇帝煬帝(ようだい)が稀に見る暴君で、貞観政要にも反面教師の例として数多く登場する、とにかく滅茶苦茶な人間だった。日本史上では聖徳太子の国書にキレた人として有名な暗君ですね。李世民が太平の世を築き得た背景の一つには、この煬帝が隋王朝を自滅させていく過程と短命政権に終わる結果を間近に目撃したことがあると思います。

そしてもう一つの背景は、お家騒動の影響です。実は李世民は李家の次男坊であり、色々と端折って結論だけ言うと、兄と弟を殺して皇子の地位を簒奪したんですね。またほどなくして父であり初代皇帝の李淵を幽閉し、若干29歳で唐王朝の第2代皇帝に即位した。このことが、つまり血生臭い骨肉の争いを仕掛けて国のトップに上り詰めたことが、後世に残る歴史書の中でメインパートを占めないようにするには、政治手腕で誰からも賞賛されるような結果を出すしかなかったということですね。

かくして、数千年の世界史上に燦然と輝く「貞観の治」が日の目を見ることになります。

人間の意思は弱い、何事も継続するには仕組みが必要

貞観政要から学べることは本当に多いのですが、ある意味でそれらの教訓の前提になっている最もシンプルな真理として、人間の意思ほど当てにならないものはなく、何かを継続するには仕組みが必須であるという李世民の根本思想があるように感じます。

現代に生きる我々も、1-2年の受験勉強や数ヶ月間の筋トレなど短期集中型の課題であれば鋼の意思で甘い誘惑を断つことができるかもしれませんが、数年〜数十年の長期継続が必要になるものについては意思だけでは挫折必至の様相を呈しますよね。

何かを長く続けるためには、自らの慢心や甘えを排除するための「仕組み」を導入しなくてはいけません。李世民はその仕組みとして、身辺に耳の痛いことをズケズケと言いまくる優れた側近を置くことを決めました。忖度なんぞ必要ないから何かにつけてこの俺を諌めまくれというわけですね。

個人的には、この決断が貞観の世を太平たらしめた最大の要因だったと言っても過言ではないと思います。意思決定の質を高く保ち続けるための仕組みを作った時点で勝負ありかと。

もの言う賢臣と「チーフ諫言オフィサー」

歯に衣着せぬ物言いでズバズバと自らの過ちを諌めてもらうため、李世民は諌議大夫(かんぎたいふ)という役職を設けて数人の側近をそのポストにつけました。李世民がその生涯に渡って最も厚い信頼を置いたとされる名臣の魏徴(ぎちょう)もこの要職を経て出世していますが、彼は貞観の治の最大の立役者の一人であり、「貞観政要といえば魏徴」といっても良いほどの重要人物で、並外れた教養と胆力を併せ持つ傑物でした。

房玄齢(ぼうげんれい)や杜如晦(とじょかい)、王珪(おうけい)、褚遂良(ちょすいりょう)など、貞観政要には多くの「もの言う賢臣」が登場しますが、魏徴ほど舌鋒鋭く李世民を諌め続けた人物は他に類例がないです。皇帝側が完全に一方的にやり込められて「おぅふ…私が悪かった」となっている会話記録も貞観政要の中には少なくありません。チーフ諫言オフィサー以外に適切な表現方法が思いつかないのは僕だけでしょうか。

そんな魏徴ですが、実は元を辿れば李世民の政敵である兄・李建成に支える参謀役として名を馳せていました。もっと言うと、李世民が兄を討つ直接的なきっかけとなった「李世民暗殺の謀」を起案した張本人でもありました。そして刑罰の場で魏徴が言い放った「そなたの兄は私の進言を能く実行に移さなかった。もしすぐに実行していたらそなたは既に亡き者となっている」という名言(暴言)を気に入った李世民は彼を臣下に召し抱えます。なかなかにロックですね。

一方で、武勇と知力を兼ね備えた李世民を高く買っていた(からこそ恐れて芽を摘もうとした)のは他でもなく魏徴であり、李世民はそれを十分に理解した上で登用したということでしょう。兎にも角にも、こうして名君と名臣の運命が交わりました。

スタートアップに置き換えると、競合企業を散々やり込めた後にCSOやCOOを引き抜くことに相当する行為でしょうか。…あり得ない話ではないかもしれません。

「草創と守成といづれか難き」

冒頭の格言に戻ります。このフレーズは貞観政要の中で最も有名なものの一つであり、また貞観政要の内容全体を貫く主題に直結するという点で重要な問いです。

事業を新たに興すことと、既にあるものを守りながら成長させることは果たしてどちらが難しいのか。これはスタートアップや企業経営にも大いに通ずるところがあるテーマですね。

結論から言うと、群雄割拠を勝ち抜いて国を建てる創業の方が難しいと述べる房玄齢に対して魏徴が返した「混乱を勝ち抜いて天下を獲った例は過去に多くあるが、平定後に油断することなく政権を長く維持できた例は少ない。よって守成の方が難しい」という反論を李世民が採用し、既に創業の時は過ぎ去った、これからはそなたらと共に守成に全力を挙げたいと述べたというのがことの要旨です。

実際には草創期の功労者である房玄齢を労う言葉も掛けつつ両者を立てた上で上記の結論を述べるあたりに李世民の名君ぶりが見て取れるわけですが、膨らませ始めると長くなるのでこれくらいにしておきます。

リーダーは機能であり、役割は状況に応じて変化すべし

李世民が時代を超えて名君の呼び名をほしいままにしている理由の一つに、自分自身の役割やミッションを客観視し、状況に応じてアンラーニングできる力があるかなと思っています。

創業と守成ではトップに求められる要件が明確に違うことは周知の通りかと思いますが、これがなかなかに「言うは易し行うは難し」で、スタートアップの現場でもこの点に苦労をしているケースを散見します。

李世民でいうと、元々はめちゃくちゃ武闘派というか、武力で圧倒的な成果を出すタイプなんですね。どれくらい強かったかというと、隋朝末期の混戦を含む草創期の戦に勝ち過ぎて、その活躍ぶりを喜んだ父の李淵(初代皇帝)が既存の官位では息子の功績を賞し切れないとして「天策上将」という王公よりさらに上の称号を特置して与えたというほどに強かったわけです。

そんな武闘派が帝位に就くと一変し、これからは文治政治だと言って全国から選りすぐりの名臣を集め始めた。先述の房玄齢を含むトップクラスの識者を十八学士と称させて身辺に置き、戦が起こらない世の中を作るための政治に意識を集中させたんですね。トップセールスがCHROに早変わりしたと。

さらに、武闘派のイメージが強いことを自覚していた李世民は臣下との対話の際、意図して笑顔で聞いたり話したりするよう心がけていたようです。なんと言うか、コーチング力の高さが見受けられます。

またこの頃の有名な逸話に、弓の奥義の話があります。弓矢は、圧倒的な威力を誇る李世民の武術の中でも際立った得技で、自分自身ではその奥義を極めたと思っていた。ところがある時、弓作りの名人に自身が手に入れた良弓十数張を見せたところ、どれも芯が歪んでおり木目まで乱れているという想定外の評価を受けてしまった。このことから、自分自身が得意とする弓の分野でも己の知識や理解が不十分であったのだから、ましてや経験の浅い国家政治に関する能力など言うに及ばずとして、自身の弱みを補完してくれる優秀な側近の登用に心血を注ぐことを決めるわけです。

意思だけでは成果が出ないことを自覚し、日常的に諫言を募ることで仕組みによって成果を出す体制を敷いた李世民はさすがと言えるのですが、大国のトップに向かって物怖じせずに思ったことを口にする臣下の方もかなりの強者です。というのもこの時代、トップがトップであれば諫言が気に食わないと言って平気で人の首を跳ねることがまかり通っていたからです。文字通り命がけの仕事なんですね。肝の座り方が違います。とここまで書いてきて、あれ、この李世民と臣下たちの関係性どこかで見たような聞いたような…と思われる方もいるでしょう。そうです、これこそが究極の「心理的安全性」です。成果のために安心してリスクを取れる組織は強い

自分自身の能力や役割を機能と捉えて客観視し、理想からの逆算で不足を補う体制の強化に最大限のリソースを割くという、これまたスタートアップの組織作りに通ずる高難度の業を軽やかにやってのけるあたり、名リーダーっぷりを感じさせます。

明君と暗君の違いは「兼聴」と「偏信」

ある時、李世民が魏徴に「明君と暗君の違いはどこにあるか」と尋ねると、魏徴は古の歴史を引き合いに出して「明君とは広く臣下の進言や忠告に耳を傾けてそれを取り入れる君主のことをいい、一方の暗君とは自分のお気に入りのへつらい者の言葉にしか聞く耳を持たない人物のことをいうのです」と答えました。

魏徴は秦の胡亥や梁の武帝、隋の煬帝らを例に挙げて、君主が一部の側近に耳目を塞がれた結果国が滅んだケースは枚挙に遑がないと説いています。この「偏心」というのは割とわかりやすく対策も打ちやすい一方で、対極としての「兼聴」を上手くやるのはなかなか難しいなと感じます。というのも、事実と意見を区別したり、単なる推測や噂話の域を出ない風説を排除したり、何を信じるかという基準を明確にしなければ能く機能しないからです。

李世民の言行録からは、彼が巧言や風説の類いを疑ってかかる姿勢も忘れずに持っていたことが窺い知れますが、この辺りの勘所は現代に生きる我々も改めて強く意識したいポイントではないでしょうか。データドリブン、あるいはファクトドリブンというやつですね。

また、兼聴の対象は人だけではなく、歴史から学ぶ姿勢を持っていることもリーダーとして明確な強みになりますが、これがなかなか難しいことでもあります。博覧強記の賢臣たちから良質なインプットを受けるためには、リーダー自身が一定以上歴史に通じていなければならず、常にそのための勉学を重ねておく必要があるからです。

常に兼聴を心がけ、それを上手く機能させる決め事を自身の中に持つことで、名リーダーへの第一歩を踏み出したいですね。

中国史上最高の名君も人の子、間違うことはある

書きたいことはまだまだたくさんあるのですが、文章がそれなりのボリュームになってきたので、そろそろまとめに入ろうかなと思いつつ、その前に一つだけ、「世界史上にその名を刻む偉人でも、間違うことは結構ある」という、我々にとって非常に希望のある話を挿し込んでおきたいと思います。

まず、これだけ守成が大事だ、安定の時こそ油断してはならぬと清き心がけを続けてきた李世民ですが、貞観の世も十年を過ぎたある時、側近たちに向かって「守成がいかに難しと言えども、これだけ意識を集中し、諫言してくれる賢臣も多く抱えているのだから、今のままいけば意外に太平の世を築くのは難しくないのでは?」と間抜けたことを言い、魏徴に「そういうモードの時が一番ヤバいので本当に自重しなさい」と強めに諌められています。

また貞観十三年には、起居注(君主の言行を記録する史官)の長官を務めていた褚遂良に向かって「そなた、近ごろ起居注のトップになったが、一体どんなことを記録しているのか、一度見せてはくれまいか」と頼み込んだ結果「君主の言行を良きにつけ悪しきにつけ全て記録するのが私の役目でありますが、帝王がご自身でご自身の記録をご覧になるとは古今東西聞いたことがありません(意:萎縮の恐れがあるのでお断りします)」と軽く往なされています。任じたら信ず、マイクロマネジメントは禁物という真理の逆を行って臣下に叱られたわけです。

他にも、娘の嫁入り支度を豪華にやろうとして魏徴に諌められたり、後継ぎ候補の息子二人の内どちらとも決め兼ねて結局内紛を避けるために穏やかである以外に取り柄のない三男坊に皇位を渡したり、歴史に学ぶと言いながら論理的には説明のつきづらい凡ミスを多数引き起こしているところが李世民のチャーミングポイントであり、また貞観政要がこれだけ広く読み継がれる理由にもなっているのではないかと思います。

我々がここから得られる学びとしては、どれだけ意識しても人は過ちを犯すものであり(特に安定期において顕著)、そうであるからこそ過ちを犯しにくい仕組みを構築しておくことが何より重要であるということですね。

おわりに

いかにテクノロジーが高速に進化しようとも、人間の行動原理や失敗の類型は太古の昔からそれほどアップデートされていません。時代を超えて変わることのない普遍的な人間心理に思いを致しつつ、千三百年以上前の歴史からこんなにも多くの学びを得られることに感謝したいと思います。組織課題に思いを巡らす、全てのスタートアップ人材に寄せて。

参考文献

筆者

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