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【Three Tiger】アジアの建機アフターマーケットを革新する― 国づくりを支える、「はたらく車」のインフラを|Players by Genesia.

インタビュー

自分らしさや自己実現が重視されることが主流の昨今。それはとても豊かなことであると思う反面、それらと表裏一体にあるのが、個人主義や自己責任という考え方ではないでしょうか。

「人それぞれだから」というのは、目の前の人を尊重しているようで、目の前の人との間に一線を引く言葉とも考えられます。

そこには、人と人との間で生まれる達成感や喜び、(痛みを伴うこともあるかもしれないが)大きな成長や感動の機会が失われているのかもしれないという危惧もちらつきはしないでしょうか―

「自分らしさ」と「人(他者)と生きること」は両立できないことではないはず。これからの私たちはどのように、”あり方”と”関わり方”を創っていくでしょうか。


Three Tigerは、インドネシアでの建機のアフターマーケットの革新を目指して、スペアパーツの調達プラットフォーム及び機械管理システムを開発・提供しているスタートアップです。

小さい頃から「勝ち」にこだわってきたという代表の杉本さんが考えるその定義は「価値あるものを残せるかどうかの戦い」とのことでした。

勝負には相手が必要です。それは、自分であったり他者であったり。杉本さんのお話は、「個人」に閉じず、真正面から「人(他者を含む)」と向き合う感動について、改めて考えるきっかけをくれました。

日本発のスタートアップとして、Three Tigerとして、インドネシアで目指す「勝ち」のビジョンについて、杉本さんと共同創業者の土屋さんに聞きました。

※本稿は全体的に編集されていますが、杉本さんの語りはこってり系の大阪弁です。脳内あるいはAIの力で変換してお読みいただけたら幸いです🙏

  • デザイン:割石 裕太さん
  • 聞き手・まとめ:ジェネシア・ベンチャーズ Relationship Manager 吉田
  • 以下、敬称略

「勝ち残ること」が体に染み込んだ、幼少期~学生時代の環境

タカ:

杉本さんの半生に関するエピソードは、投資検討の段階でもいろいろ聞いてきて、かなりインパクトの大きいものが多い印象があるんだけど、改めて幼少期から起業まで、どんな意思決定を積み重ねてきたのか、聞かせてもらってもいいですか?

杉本:

僕は小学校5年生まで上海に住んでました。そこから大阪に引っ越して、大学から上京しました。特徴的な経験としては、幼稚園から寮に入っていて、何週間かに一回家に帰るみたいな生活をしてたことですかね。

タカ:

幼稚園から寮に入るというのは、かなり特殊な経験だよね。

杉本:

ちっちゃい頃から他人で形成されたコミュニティの中で育った感覚があるので、サバイブ意識は人一倍強いと思います。そういう環境では強さで立ち位置が変わってくるんで、必然的に喧嘩とか小競り合いが多くなります。大阪に引っ越したときも、最初は嫌がらせ受けたりしてやっぱり喧嘩してしまったり。そういう喧嘩っ早いところがありましたが、同時に、身内への仲間意識も強いと思います。

タカ:

今はもちろん喧嘩っ早いみたいな印象はないけど、それでもアグレッシブな姿勢は大いに残ってる気がするね。他に、今に繋がるようなエピソードはありますか?

杉本:

中学時代に打ち込んだ柔道の影響は大きいです。強豪校にいたので、練習と先輩のしごきがほんまにキツくて。当時はまだ考え方が伝統的で、とにかく練習量や根性論が重視されてた。辞めたいどころか、何回も死にたいと思いました。それでも同級生の仲間がいたから最後までやりきれた。その、初めて何かを最後までやりきった経験が大きいですね。あとは、やっぱりほぼ死にかけたんで、死ぬこと以外は何とも思わなくなりました。そのメンタルは今でもバックボーンとして活きてます。失敗しても困難にぶつかっても、死ぬわけじゃないねんからどうにかしたったらいいわって。社会人でも、国内でも海外でも、肩書きがえらい方とか高圧的な方とかいるじゃないですか。それで物怖じする人もいますが、僕は「殺される訳じゃないし、肩書き外したら(腕力で)こっちの方が強い」って思ってるんで、あんましビビらない。そこも強みになってるかと思います。

タカ:

柔道をやりきったっていうのはどこまでやった感じなの?

杉本:

団体で近畿3位までいきました。全国大会目指してたんですけど、オリンピックチャンピオンの石井 慧選手がライバル校にいて、彼のチームに近畿大会の準決勝で負けたんです。そして彼らは全国優勝しました。でも、悔いはあまりなかったです。こんだけ練習して勝てへんなら、今の自分の限界はこんなもんかもなって感じでした。世の中には逆立ちしても勝てない相手がいて、上には上がいる現実を身をもって知れたことも、自分の中では大きかったです。あとは、大阪で階級なしの無差別の大会があったんですが、そこで軽量級(当時)から唯一3位まで入賞できたのは自信になりました。

柔道に明け暮れた学生生活を経て、0から受験勉強をスタート

タカ:

柔道のインパクトはかなり大きそうだけど、高校では続けなかったんだよね。その後の進路はどう意思決定していったの?

杉本:

僕は柔道でオリンピックに出たかったんですよ。出られるかどうかは置いといて、当然ながら周りもみんなそういう夢を持ってた。で、大阪一の強豪校に行きたいって言ってたんですけど、「スポーツ推薦はダメだ」「行くんなら自分で学費払え」 と親に猛反対されて、結局勉強することにしたんです。部活を引退した三年の秋くらいからですかね。部活してたときは、朝6時から走り込み、昼飯10分で食べて残りの昼休みは筋トレ、学校終わって15時から20時まで練習して、そこからチャリンコで町道場行って21時から23時まで練習、それを360日って生活でした。

タカ:

それって中学生だよね・・?覚悟して始めたの?

杉本:

いや、全然聞いてなかったです。みんな勧誘するときは優しいんですよ。でも全部、嘘で。

タカ:

体育会系あるあるだね・・

杉本:

そんな感じの環境だったんで、もちろん勉強は0。高校受験するにあたって塾に行こうってなったんですけど、塾の入塾テストを受けたらほぼ0点で、「おまえ入れんの無理やわ」ってなりました。こっち金払うのに断られんの?みたいな。

タカ:

杉本:

結局「個別レッスンだったらいいよ」ってなって、そこから勉強を始めたわけです。最初は全くできませんでしたけど、だんだん問題が解けるようになるとめっちゃ褒められるんですよ。成績伸びたら、親も「ええやん」 みたいになって。クーラー効いてる部屋でこんな軽~いペンみたいなもん持ってちょこちょこっとやったら褒められるって、めっちゃええやんって。

タカ:

杉本:

でも、学校の先生には「おまえみたいなアホには、志望してる高校は絶対無理や。アホな高校行っとけ」とか言われて、めちゃくちゃ腹立って、絶対入ったろうと思ってやりました。それで無事に志望校に合格して、一年生の時に頑張って、二年生からは特進クラスにも入れました。

「いいものを作れば売れる」が崩壊し始めたとき、研究→商売へ

タカ:

で、大学から東京に出ることにしたんだよね。

杉本:

親が国公立じゃないとダメって言うのと、大阪から出たかったので、東工大と農工大に絞って、結果的に農工大に行くことになりました。小さいときから『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』のゴミを燃料にして走る車に憧れてて、そういうエンジンを作りたいなって思ってたんです。でも、大学入ったら、授業がおもんなさすぎてびっくりしました。想像と違いすぎてものすごいデモチされてもうて、そこからあんまし行かんくなりましたね。学費も生活費も自分で稼がないといけなかったので、バイトしたりして。未来の車をつくりたいって言っても、大学での研究ってめっちゃ狭い領域をやるんで、そうやって一点を深く突き詰めるっていうのが合わんくて。しかも、周りがめちゃくちゃ優秀で熱心なヤツらばっかりだったんで、研究では同級生には絶対勝たれへんし向いてないなと思って、学部卒で就職しようと決めました。

タカ:

そこからビジネス方面へ路線変更していくんだね。

杉本:

四年生で研究室に入るんですけど、僕は大学院に行かないと決めてたので、全然やる気なかったんです。そしたら、「あいつは不真面目だ」「勉強ができない」 って結構バカにされてたんですよ。あと僕、見た目が5浪してる人みたいやからって、陰で「ゴロウさん」って呼ばれてたみたいで。それがめちゃくちゃ腹立ちましたね。学部生がやる研究は大したことないんですが、最後の一年、ケジメとしてちゃんと成果出して学会に出ようと一念発起したんです。

タカ:

それで路線変更を考え始めるわけだ。

杉本:

僕が大学四年生の頃にiPodが発売されたんですよ。めちゃくちゃ売れてましたね。イヤイヤ、こんなんMP3プレイヤーとかパナソニックとかがめっちゃ昔から出してるやんって思ったんですけど、でもAppleは市場を一気に捲っていった。ホイールが使いやすいとかiPodを持ってるのがイケてるとか、そういう新しい”スタイル”で「技術の日本」の優位性をどんどん塗り替えていった。その頃からですよね、日本の凋落みたいなものを感じ始めたのは。「いいもんだけ作ってたってもう売れない」「日本は技術で勝っても商売で負けてる」 とか、耳にし始めた頃だったと記憶してます。でも、大学では誰もそんなこと思ってないんですよ。

タカ:

もうちょっと具体的に研究してた分野についても教えてもらえる?

杉本:

僕が研究してたのは熱音響という分野で、熱を加えると音波に変えることができ、逆に音波を与えると冷やすことができる熱エネルギーと音エネルギーの変換を行うような分野です。この原理を使ったデバイスを活用すると、今まで捨ててたような低い温度帯の排熱を使って発電や冷却ができるようになります。エコーだけでなく、デバイスに可動部がないので壊れないという、めっちゃええ技術やったんです。でも、当時の僕の研究室では民間企業との共同研究とかはなかったですね。 なぜかって教授に聞くと、壊れないからこそ買い替え需要がなくて儲からへんということでした。だから、僕の研究室は研究費がかなり限られてて、実験器具は全部自作でした。それはそれでおもしろかったんですけど、同時に、世の中にとってめちゃくちゃ良い技術やのにおかしいやろっていう違和感も感じてました。

タカ:

いい技術だからこそ尚更、その環境は理不尽だって思うよね。

杉本:

そこで僕が思ったのは、なぜ儲け方を工夫しようとしないのかってことです。そこに知恵の絞り所があるのにって。周囲はいつまでも「いいもんつくったら売れる」から抜け出せないんですよ。正直、なんか大局を見誤ってないか?と思ってました。大学って本当におもしろくていい技術がいっぱいあるんですよ。でもやっぱり民間企業を巻き込んで商売にできないと研究資金が入ってこない。資金がないと実用化もできないし、技術も育たない。それはやっぱりいかんなと思いました。僕は、教授や同級生に研究では絶対勝たれへん。たぶん、商売の方が向いてるんちゃうかなと思ったんです。商売を作ることも大事な技術の育て方の一つなのかなって、 技術立国・日本に対してそういう貢献の仕方もあるんじゃないかなって思ったんです。それで就活中にいろんな業界を見ていく中で、あくまで個人的にですけど、商社は「儲かるんやったらどんなビジネスにも挑戦していい業界」だと解釈して、それで三井物産に入りました。

“外のヤツから身内をバカにされたら腹立つ”から、日本を強くしたい

タカ:

「日本を強くしたい」みたいな視座の発言が急に出てきた感覚があるんだけど、そういう考え方っていうのはどのあたりから出てきたの?

杉本:

僕は小さい頃に二つの国で育ったから、一つの国の国民としてのアイデンティティがずっとあったわけじゃないんですよ。でも、よくわかんないですけど、あるとき思ったんですよね。「この国(日本)、アカンことも多いけど、やられっぱなしは悔しいな」って。例えば、僕が中国に住んでた90年代の日本は、”未来都市”だったんですよ。当時の新幹線なんて中国人からしたら今のSpaceXですよ。上海で一番高級な百貨店は伊勢丹だったし、日本車を持つのはみんなの夢で、流行りの歌も大半は日本の曲のカバーですよ。日本は憧れの的やったんです。ハイチュウみたいなもんでもお土産で中国の友だちにあげたら「こんな美味しいの初めて食べた!!」みたいな話なんですよ。それが2000年くらいまで。その後どんどん変わってくんですよ。中国はものすごいスピードで発展して、その頃ハイチュウあげたら「なんやハイチュウかいな!こんなんコンビニで買えるやん」みたいなレベルになってく。日本から来たって言えば 「すげえ!!」って言われてたのが、「あー、日本ね」みたいな扱いになっていく。今の日本に、”発展”とか”最先端”のイメージはもうないですよ。安全で人が少なくて清潔で、癒されに行く場所って感じ。僕らが東京から箱根にのんびりしに行くくらいのイメージ。これがこの20-30年の間に一気に起こったことです。もちろんそれらも日本の素晴らしいところですけど、やっぱり、当時のイケてる日本はどこに行ったんやという感覚も拭いきれない。悔しいなって思うようになったんです。

タカ:

私自身も、学生だった2000年代前半からアジア新興国に足繁く通っていて、2011年からインドネシアに移住して。その間に、相対的に日本企業や日本の商品のプレゼンスがものすごい勢いで下がっていくのを肌で感じてきました。けど、日本という国やブランドへの信頼は今も厚い。だからこそ、ここからの5-10年が、先人が築いてきた日本への信頼を次の世代に繋げられるかどうかの瀬戸際だっていう危機感を持ってるね。

杉本:

僕は商社の仕事を通じて、外国との比較の中で、日本には素晴らしい人・技術・企業文化がたくさんあると改めて気づくことができました。日本や日本人の底力はこんなもんじゃないと思う気持ちもどんどん強くなっていきました。でも、今の日本は腑抜けてるなって想いも同時に芽生えていきました。「日本の技術は世界トップやからまだまだ大丈夫」とか「まだまだどっかで勝ってる」とか、そういう考えや空気がどこかであると思うんですよ。でも、その時間軸は”今”だけになってないかと。世の中、”今”だけ見て”守りに入ってる”ような国なんかなくて、10-20年後を見据えたらもう負けてるでって言いたい。ビジネスは戦いやねんから、もっと必死こいてやらなアカンやろって。昔の日本はたぶんすごくハングリーで勤勉だったんですよ。アメリカに追いつけ追い越せの反骨精神に満ちてた。でも、世界で二位、アジアで一位になってからあぐらをかき出したんやと思います。その間、中国は強かにキャッチアップし続けてきて、追いつかれて、 今はもう追い抜かれた。韓国もそうですよね。それでも日本って未だにどこかであぐらかいてるでしょ?それに無性に腹立ったんです。不甲斐ないなって。だから僕は戦いたいなと思ったんですよね。いくらだらしないなって思ってても、外のヤツから身内をバカにされたら腹立つでしょ?そんな感覚です。今海外で事業してるのも、そのへんの想いが背景にありますね。

海外を舞台に挑戦する理由— 日本人としての“勝ち”を実現するために

タカ:

改めて、海外で事業してる理由について聞いてもいい?

杉本:

三井物産では11年ちょっと仕事しましたけど、ずっと海外やらせていただきました。20ヵ国くらい行かせていただいたんじゃないかな。それで気付いたのは、海外で日本人が尊敬されるだとか親日だとかいうのは、基本的には単なるリップサービスやなということ。それ言われると、日本人は気持ちも財布の紐も緩むってみんな知ってるんですよ。「日本はすごい」「トヨタはすごい」ってよく言われるし、言われて誇らしいけど、でも「そこにいる“俺”はどないやねん」という話ですよね。海外で現地の人らと商売するとき、僕らはイチ日本人ビジネスパーソンとしての本気度や姿勢、知恵や能力とかを試されてる訳です。そこは“己”が評価される世界です。例えば、厳しい場面とかではへらへらせんと、譲れないものはバシッと突き返さないといけないし、口論になったとしても妥協で小綺麗にまとめるんじゃなくて、双方が納得するまでしっかり議論するべきです。そして、いろんな利害関係や力学を理解した上で「こいつ、やりよんな」と思わせるような提案も捻り出さないといけない。つまり、主語を“We”ではなく“I”とした時に自分は何ができんのと。その気概で戦えてる人は少ないように感じます。だから、だんだんやられていってるんですよ。例えば、若手時代に研修でチリに二ヵ月くらい行かせもらったとき、同じアパートに、ADSLデバイスと何かの通信機器を売りに別々の中国メーカーから来た中国人が二人いたんです。駐在してんのかって聞いたら、出張で来てるよ言うて。スペイン語できんのか?言うたら、できない言うて。現地パートナーいんの?って聞いたら、それもいない言うて。じゃあ営業どうすんの?言うたら、電話ボックスにある電話帳の上から片っ端に電話してるよって。n個売れるまで帰れないから、もう四ヶ月くらいいて営業してるよって。もちろん洗練されたやり方ではないんですけど、新しい市場開拓するためにそれができる日本人って今何人いるんだろうと思いました。昔は日本企業もそれをやってたと聞きます。今は違う。でも、僕らはそれができるヤツらと戦ってるんですよ。ロシアにいたときも、韓国人は片道切符で赴任してましたからね。

タカ:

文字通り、現地のビジネスに本気で身を投じてるわけだよね。

杉本:

日本で商売つくってから海外行きますというのが一般的ですけど、正直それじゃ間に合わないと思います。現地には、優秀な人間も利権をガッチリ掴んでる企業も山ほどいるし、ルールも全く違う。その中で中国人も韓国人もガチンコの勝負をしてる。僕らもそこで戦って勝っていかないと、グローバルではこれから勝てませんよ。現に、僕らが事業してるインドネシアでも、自動車も建機も中国企業がものすごい勢いでシェアを取っていってます。そしてシェアを落としてるのは日本です。僕は、最初から現地のニーズを捉えて事業を立ち上げることがこれからの日本のあるべき戦い方の一つかなと思っていて、だからまずは自分でやろうと思って、海外で挑戦してます。それと僕は、迷ったら難しい道に進むようにしてます。その方がうまく行ったときのチャンスが大きい。いきなり海外で起業する難易度は、おそらくあらゆる仕事の中でもかなり高い。だからこそやろうと。・・なんですけど、思ってた200倍ぐらいむずくて、500倍ぐらい進まないですね。

タカ:

杉本さんがそれだけ勝ちにこだわり続けられてるのはなぜなんだろう?

杉本:

育った環境の影響もあると思います。自分がいるコミュニティの中で勝ち残らないといけない、何か存在感を出さないといけないという感覚が強い気がします。だから、僕は常に何かと勝負してる感覚なんですよ。嫁にも「そんなにずっと何かと戦ってて疲れへん?」って言われます。 僕はそんなにビジョナリーな人間じゃないと思ってるので、もしかしたら僕の姿勢は周りも疲れさせてるのかもしれないですね。

タカ:

勝ちの定義はどう考えてるの?

杉本:

勝つというよりも、足跡残したいなって思ってるのかもしれません。自分の名前を残したいとかじゃなくて、世の中に対して何かを生み出したとか、良い方向に変化を与えたとか、そういう欲求が強いんやと思います。そしたら、いろいろ耐えてきた意味があるわけですよ。

大企業からの独立前に触れた、スタートアップとアントレプレナー シップ

タカ:

今日も同席してくれてる、共同創業者の土屋さんとの出会いはどこだったの?

杉本:

僕は三井物産での後半の二年半ぐらい、『Moon Creative Lab』っていう三井物産グループのスタートアップスタジオに出向してて、そこに土屋がエンジニアとして働きに来ていて出会ったのが最初です。僕は契約書とかを一次承認する立場だったんですけど、土屋って最年少なのに業務委託料が一番高かったんですよ。こいつ、そんなすごいんか?って担当者に聞くと、彼は一人で三人分くらいできるからこれでも安いですよって。そんな出会いでした。

タカ:

Moon Creative Labに行ったのはどんな経緯だったの?スタートアップに興味があったの?

杉本:

全然興味なかったです。チャラついてるイメージで、むしろ嫌いでした。きっかけとしては、会社辞めたいと悩んでたタイミングと重なってたことです。当時の三井物産は、マイノリティ出資するプロジェクトが多かったんです。僕がいた部門はほとんど事業投資で、新規投資や投資先をバリューアップもしくはターンアラウンドさせるみたいなことしてたんですけど、マイノリティでオーナーシップを発揮するのは非常に苦労が多いんです。僕は担当する会社を良くしたい一心でやるんですけど、マイナー株主として出向くと投資先から「スパイやろ」って言われて敵意を向けられることもあるし、会社を動かすために人間関係築くのにもものすごく時間と労力がかかる。意思決定できることも限られる。これがマジョリティなら、遠回りせずにドライバーズシートでハンドル握って、労力を全て注げるのに・・との想いがありました。最後まで仕事をさせてもらえないという歯痒さもありました。僕はどんな厳しい環境や逆境に身を置かれることも厭わないし、やっぱり一つの仕事を最後までやり切って実績を出したいという思いが強かったんですが、年次やいろんな立場の中でそうはいかないことも多々ありました。もちろん、大きな組織なのでそういうことがあるのは仕方ないと頭ではわかるんですけどね。そんなときに、三井物産の長期業態ビジョンの一貫でMoon Creative Labを作るという話が出てきたんです。それは、これまでの商社の“つなぐ”モデルではなく、三井物産が必ずマジョリティでやるというコンセプトのもと、ゼロイチで事業を“つくる”ことを目標とした取り組みでした。そのコンセプトにめちゃくちゃ共感したんです。僕は三井物産に恩があるし、すごく好きな会社なので、Moonを成功させて三井物産をより強くしたいと思って、立ち上げメンバーに応募したら受かったんです。そのとき初めて「スタートアップとはなんぞや」みたいなところからキャッチアップして、商社マンとは全く別世界の方々と一緒に働いて、すごくインスパイアされました。

タカ:

ドライバーズシートに座れる環境を手に入れたんだね。

杉本:

Moonの上司にアメリカ人の連続起業家でRobという方がいて、その方から受けた影響が特に大きかったです。Robは当時50代半ばくらいだったのですが、本当にキレッキレでした。生粋の起業家なので、いろんなしがらみに忖度せず、顧客への価値創造と事業の成功に100%エネルギーを注いでました。その考え方とスタンスのもとで一緒にピュアに仕事できたのがめちゃくちゃ気持ちよかったですね。僕はラッキーなことに三井物産の中でもめちゃくちゃ仕事ができる諸先輩方に仕事を教わって、尊敬する方がたくさんいましたが、その方々よりもすごいかもしれないと思えるようなバケモノ級の人でした。話しててもおもろいし、人格者やし、 自分も成長を感じられて、Robと一緒に働いた期間はすごい充実しました。でも、そのRobがいきなり辞めたんですよ。何すんの?言うたら、もう一回起業するわって。・・日本の50代でこれができる人はなかなかいないんじゃないですかね。僕も当時ちょうど、サラリーマンとしてずっと働いていくのかと悶々としてた部分もあったので、Robの話を聞いたときにすーーっと「何燻ってんねん、俺も挑戦しよう!」ってなりました。それまで二回ぐらい会社辞めたい時期があったんですが、なかなか踏ん切りがつかずにいたんです。でも、この時は何の迷いも生じなかったので、直感的にこれが辞め時やなと。そのとき35歳で、徹夜で毎日働ける体力はまだあったし、10年死ぬほどやってもまだ45歳で、仮にアカンくなっても全然再起できるし、うまくいったらそれこそゴミで動くエンジンとか熱音響の実用化とか、更に大きいテーマでの起業にも挑戦できると思ったんです。結局、三井にはあんまし貢献できなかったんですが、それがきっかけで会社辞めました。

コロナ禍での渡航は空振り。後がない中で掴んだビジネスチャンス とは

タカ:

商社を辞めて、次に何するかは考えてたの?

杉本:

なんとなくしか考えてなかったです。僕、2015-18年くらいまでミャンマーの仕事してたんですよ。軍政が倒れて、アウンサンスーチーさんの政権が選ばれて国が初めて民主化したときに、国内の農機メーカーと一緒に農業の機械化を推進するプロジェクトをやってました。農業の機械化って、リアルに作業効率が100倍とかなるんですよ。生産性が上がって、農家の取り分が増えて、暮らしが良くなる。問題は農家に元手がないことなんですけど、そこは商社マンとしてうまくスキーム組んで販売できたんちゃうかなと思います。そのとき、すごくいいことしたなと思ったんですよ。僕は自分が社会に迷惑かけてきた自覚があるので、やっぱりいいことしたいんです。だからそのプロジェクトは本当に気持ちが良かったです。当時、三井物産としてミャンマーで農協のような仕組みをつくろうという狙いもあったのですが、いろいろあってうまくいきませんでした。なので、これの続きとして東南アジアで農協の仕組みをつくりたいなと思ってました。実際、それくらいの解像度しかなかったです。で、コロナ禍のど真ん中でタイに行ったんですよ。そしたら最初に温めてたアイデアがいきなりだだスベリしました。青果を扱おうと思ってたので、自信満々に青果市場とか行ってインタビューしたりプロトタイプ見せたりしまくったのに、全く響かんかったですね。アイデアはそれ一個しかなかったので、ヤバい・・早くも終わった・・ってむっちゃ焦りました。バンコクの町外れの安アパートで頭抱えてました。

タカ:

何度聞いてもおもろいわ、この話。

杉本:

そのとき、本当にたまたまなんですけど、同じ農工大卒の三井物産の後輩もタイにいたんですよ。で、何かのきっかけで「何してんの?」って連絡したら「タイにある製糖会社に出向してる」って言ってて。サトウキビって、実は作付面積が大きくて、つまりマーケットの大きい作物なんです。しかも換金作物なんで、金が動くチャンスがむっちゃあるはずと思いました。とにかく後がないし、現場に飛び込めないと何もできないので「コンサルでも何でもいいので入れて!」ってめっちゃ売り込んだら、幸運なことにOKをもらって、首の皮一枚繋がったんです。そこから一年半くらい、 クンパワピー村というところに山籠りしました。そこにもうちょいしたら土屋が来ます。

現地×現場で、日本人の強みを発揮しながら働くということ

タカ:

土屋さん目線でも、杉本さんとの出会いからクンパワピー村に辿りつく経緯を聞いてもいいですか?

土屋:

先ほど杉本さんがお話ししていた『Moon Creative Lab』にエンジニアとして関わりつつ、私は自分でも学生起業をしていました。ただ、コロナ禍もあって思うように事業を伸ばせず、これからどうしようかと考えていた時期に、杉本さんから声をかけていただいたんです。とはいえ、当時の自分は就職経験もなかったし、もっと広い領域を見てみたいという気持ちが強くありました。それに、杉本さん自身もまだタイに行っていなかった頃で、スタートアップ界隈には口だけの人もいるし、本当にタイに行くのか?安くエンジニアを使おうとしてるだけじゃないのか?って正直警戒していました(笑) なので、一度はお断りしました。その上で、就職先として選んだのは銀行でした。将来的にまた自分で事業をやるにしても、杉本さんと何かをやるにしても、金融なら幅広い業界と接点ができるし、多様な人たちと働く経験も得られると考えたんです。実際に銀行では、DXプロジェクトのPMやマーケティング、データ分析などを経験させていただきました。銀行で働く中で感じたのは、自分は実業というか、リアルなヒトとモノがある現場の中でシステムをつくるのが好きだということ、そして、現場に深く入り込まないと本当に意味があって価値を生むシステムをつくることはできないということでした。入社してちょうど一年ほど経っていたこともあり、その方向性で改めてキャリアを考え始めたタイミングで、ふと杉本さんのLINEを見たら、タイの方との写真がアイコンになっていて。本当にタイに行ってる!と思って、気になって連絡したんです。話を聞いてみると、その内容が自分のやりたいことにも近くて、おもしろそうだなと思い始めました。

タカ:

それにしては、銀行から海外でスタートアップとは、ジャンプがあるけどね。杉本さんの思想や姿勢に共感するところがあったんですかね。

土屋:

もともと海外には興味があって、学生時代にヨーロッパとアメリカに一ヶ月ずつくらい行っていたこともありました。ITにしても、日本よりアメリカの方が進んでるのは間違いなかったし、”失われた20年”なんて言われてる日本に対する閉塞感もあって、海外で働いてみたい気持ちがあったんです。でも、その旅を終えて帰ってきたら、自分でも意外だったんですけど、日本ってそんなに悪くないなって思ったんです。むしろめちゃくちゃ豊かでいい国だなって。その頃から、日本のために何かしたいって気持ちが生まれました。

タカ:

めちゃくちゃわかります。僕も海外生活15年目とかで、日本の知人や友人に「日本を捨てたの?」なんてちょっと寂しい言葉をかけられることもあります。でも、海外にいるからこそ「日本ってめちゃくちゃ豊かでいい国だな」って思ってます。

土屋:

その話を杉本さんにしたら、「それやったらやっぱり海外やで」と言われました。特に東南アジアは文化圏としても日本に近く、自動車や建機の分野では日本企業のシェアも依然として高いので、日本人としての強みを発揮しやすいと。一方で、ここ最近は中国や韓国の企業が急速に追い上げてきていて、このまま何もしなければ日本の存在感は薄れていってしまうとも。だからこそ“今、現地でやる”ことに意味があるし、先輩方が築いてきた日本のプレゼンスを維持・発展させられるようなサービスや会社をつくることは、日本のためにもなる。そんな杉本さんの考え方に強く共感したんです。

タカ:

じゃあもうほぼ参画を決めた状態でクンパワピー村に行ったってことですか?

土屋:

そのとき私は東京に住んでたんですが、ベッドとデスクだけの部屋を拠点に、朝から晩まで働いては寝るためだけに帰ってくるような生活を送っていたんです。そんなときに杉本さんから、タイで毎日のように起こる珍事件の話を聞いたり、「タイなら家賃4万円くらいで、大自然の近くのタワマン住めるぞ!」なんて言われたりして。日本での生活よりも圧倒的に刺激があって、タワマン住めるならいいじゃんって。

杉本:

わざわざ不動産屋に内覧申し込んで、プール付きの高級コンドミニアムの動画撮って送ったりしてましたね。ホンマは働くのバンコクちゃうけど、バンコク“とか”やでって言って誤魔化してましたね。で、土屋来てからまずバンコクを観光してもらって、「ほな、ぼちぼちクンパワピー行こか」って。

土屋:

あれ、タワマンは?ってなりましたけど、トカゲの鳴き声で目覚められるような大自然の中の広々とした部屋に連れてかれて、まぁこれはこれでおもしろいなと。三ヶ月ほど二人で暮らしました。

国の経済ポテンシャルと、機械×ITへの引き合いを感じて、インドネシアへ

タカ:

そうしていったんは二人してクンパワピー村の製糖工場に身を置いてたわけだけど、そのうち自分たちの事業をするために村を出る日が来るわけだよね。そのときにはもう事業アイデアがあったっていうこと?

杉本:

製糖工場での仕事からいくつかのインサイトを得て、おおよその方向性は決めてました。製糖工場では農家の収穫請負などを行うために農業機械をたくさん持ってたんですけど、事業上の課題が結構ありました。実際に現場に入ってわかったのは、 機械事業のセオリーを現場の方があまりわかっておらず、同じような状況は他社にも多いということ。あとは、部品調達や機械管理の分野が、少なくとも僕が社会人になった頃から何も進化してなかったってことです。もう一つ、アジアの農業とITの相性の悪さがありました。農業におけるITって結局は小手先のテクニックというか脇役なんですよね。やっぱり作物というのは、人間が土を耕さないと作れないし、自然との戦いです。また、特にアジアにはいろんなしがらみというか、難しい構造があって、ITだけでどうにかできる世界ではないんです。一方で、機械とITとの相性は抜群です。生産設備なので、効率化してナンボ。あとは、僕が持ってる知識で勝負できるのはやっぱり機械領域だから、勝負するんやったらここやなって。そのあたりの気付きを得て、自社としてフォーカスすべき領域を再考しました。それまで二年くらい自己資金だけで土屋と二人でやってきたんですけど、スピードも出ないし人も雇えないし、このままダラダラやってもデカいことできないから、ちゃんと資金調達して本格的にやろうという話をして、そのときに農業じゃなくて建機にいこうと決めました。

タカ:

実際にローカルの製糖会社の現場オペレーションを知ったことで、取捨選択することができたんだね。その上で、建機市場の見通しみたいなものを見てインドネシアに?

杉本:

その頃に初めて投資家を回ったんですけど、シンガポールにいる投資家の方と話したときに「東南アジアでファンドレイズしてスタートアップみたいにやるんだったら、インドネシア一択だ」「その決断のタイミングはまさに今だから、一度インドネシアは見ておいた方が良い」というアドバイスをいただいたんです。インドネシアの建機市場が圧倒的に大きいのは数字ではもちろんわかってたんですけど、だからといって自分らが簡単に商売できるかは別の話ですし何の足がかりもなかったので、まずは現場見てみようってことでとりあえずインドネシアに入って飛び込み営業してみたんですけど、それで普通に部品の引き合いをもらったんですよ。「おまえ日本から来たんか!俺この部品欲しいから見積もりくれへん?」みたいな。はじめて会った外国人にですよ?タイではあり得ないことです。そういうことがままあったんで、この国では金が回ってるなと思ったんです。勝負するなら絶対ここやなって。

国の発展を支える「はたらく車」— それを支えて発展に貢献する

タカ:

それで、建機領域の事業にフォーカスしてインドネシアに来て、ローカルの人たちとか所縁のある人たちから資金を集めてたんだよね。で、事業がちょっとずつ進み始めて、もうちょっと攻めようってタイミングで我々から資金調達した。

杉本:

きれいに言うたらそうですね。実際には全然そんな感じじゃなかったんですけど。

タカ:

海外で事業をする理由は聞いたけど、その事業やビジネスを通じてどんな世界を実現したいかってところでは、杉本さんは今どんなビジョンを描いてる?

杉本:

僕らは、建機のアフターマーケットという、部品の調達とか修理・メンテナンスとか、機械を使っていたら必ず発生するコストや活動を効率化するサービスを提供してます。普通に生活してると「はたらく車」ってあまり意識されないと思うんですけど、実はすごくいっぱいあるんです。そして、トラックも建機も社会を支えるインフラなんですよね。例えば、物を運ぶのにはトラックがいる。道路や橋造るには建機がいるし、インドネシアだと資源を掘るには鉱山機械がいる。国づくりは、あらゆる場面で「はたらく車」が必要不可欠なんです。特にインドネシアは、今まさに発展してる真っ只中なんですけど、全然インフラ足りてないんですよ。道路も港湾もエネルギーも、あらゆるものが足りない。それらをこれから作っていくのに必要なのが、建機などの「はたらく車」です。ところが、その運用がものすごく非効率なので、それを効率化するのが僕らの役割。例えばインドネシアの場合、欲しい部品はすぐに手に入らないし、偽物や詐欺も多い。故障や修理とかの履歴も残ってないので、適切な修理ができない。かなり属人的なんですよね。加えて、インドネシアでの機械の稼働環境も厳しい。機械のダウンタイムが長くて、再発故障も多い。生産性が低く、運用コストが高いんです。インドネシアは人件費など含めて安いイメージあるんですけど、実は機械を持つ・使うコストは日本よりも高い構造になってると思います。そこに対して、どんな部品でもすぐに入手できるサプライチェーンを構築して、修理やメンテナンスをしっかり管理・改善できるシステムを提供しています。機械の生産性を上げて顧客の利益を最大化することによって、インフラ建設のコストが下がって更に設備投資ができるようになる。結果的にもっとインフラ投資ができたり建設スピードが上がったりして、インドネシアという国の発展に貢献できると思ってます。そういう国づくりを支える械機化のインフラになるようなサービスを作っていきたい、それがビジョンですね。

タカ:

ちなみに、土屋さんはこれまで建機やはたらく車に縁はあったんですか?

土屋:

全くありませんでした。そこは製糖工場での経験が大きいですね。クンパワピー村では一年ちょっと過ごしたんですがほとんど毎日機械が壊れて、メカニックが修理しに行ってました。でも、LINEとExcelと紙ではやはり管理に限界がありました。故障や修理履歴を瞬時に参照できないため、場当たり的な修理になることが多々あったり、どの機械のどこで壊れていて、どの機械が問題なく稼働しているかをリアルタイムに掴むことも難しい状況でした。そこで、現場で機械メンテナンスの実務を学びながらシステムを開発して。実際導入してもらったら業務改善できた手応えがすごくあったんです。状況が可視化されたことで、「KPIがどうだ」「故障の原因は何だ」といった会話が生まれ、チーム全体の意識や行動が一気に変わっていきました。日本より未整備な部分が多い分、ハマったときのインパクトは大きい。それはインドネシアでも同様で、東南アジアならではのおもしろさの一つだと思っています。

達成感や充足感、そして「感動」を味わえるチームをつくりたい

タカ:

チームはどんな感じですか?二人以外には何人くらいがジョインしてくれてるの?

杉本:

日本人のエンジニアがもう二人いるのと、インドネシア人の社員が11人、全部で15人です。

タカ:

今後はビジネスサイドでも日本人の採用を考えてるんだよね。新興国で一緒に暴れ回りながらインフラを作っていけるような人。そういう意味では、Three Tigerはどんなチームで、どんな人が合うと思う?

杉本:

土屋と共通認識持ってるのは、「プロである」ということですね。自分の行動と結果に責任を持って、目標や周囲の期待以上の成果を出すために、自ら何をすべきかを考えて動ける人。噛み砕くとよく求められる人材像ではあるんですけど、 それをまとめると「プロ」ということなんじゃないかと考えてます。そういう人が集まって、切磋琢磨して高め合えるようなチームを作っていきたいです。

タカ:

言語化されているMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)とかはあるの?

杉本:

MVVはつくってませんが、「三つの感動」を生み出せるチームになりたいなって思ってます。一つ目は「驚きの感動」。予想をはるかに超える体験をしたときに、人は心動かされると思うんですよ。お客様にそういう体験を生むチームでありたい。二つ目は「達成の感動」。高い目標を達成したときとか困難を乗り越えたときに感じる達成感や喜びを知っていて、それを味わえるチームでありたい。三つ目は「充足の感動」。何かを成し遂げたり、自分の働きや生み出した価値が正当に評価されたりしたときに感じる充足感をもたらすチームでありたい。そんな想いを込めてます。特に、仕事を通じた達成感や充足感の話は、インドネシアではまだピンと来ない方が多い印象があります。それが悪いわけじゃないですけど、質の高い仕事をする上では大事なことだと思うんです。

タカ:

それって文化とか環境とかの影響によるのかな。

杉本:

あくまで個人的な感覚ですが、インドネシアには日本のようなクラブ活動や部活の文化があんましないので、そこで得られる目標達成や勝利の喜びみたいな感覚を感じる機会が少ないことが一因としてあるのかなと思います。また、一般的なインドネシア企業では、頑張って成果を出してもそれが正当な評価や昇進に必ずしも直結する訳ではないそうなので、そういった環境の影響もあるように思います。つまり、自分の限界を超える経験や努力が報われる経験が得にくい環境が背景にあるんじゃないかと。だからThree Tigerでは、真剣勝負との経験を通じて仕事のおもしろみや喜びが得られるような環境を提供したいですね。そして、正当な評価と給料を提供する。そういう正しいサイクルが回るような組織にしたいと思ってます。

タカ:

今一緒に働いてるメンバーにもそれを求めていて、実現されてると思う?

杉本:

まだ道半ばですけど、少しずつ、努力と成果が報われる環境があることは感じてもらえるているような気がします。「プロ」という単語も少しずつ会話の中で出てきたりしてます。僕は、本気でやってるから厳しいこともメンバーには言いますし、求めるもんも高いですけど、みんなのビジネスレベルを上げながら事業を成長させたいです。

Aero:

チームを作るのは、時間がかかると思いますが、いずれチームで勝ちの景色 を一緒に見られるといいですよね。

何かを生み出すこと=国力— それを推し進める、仲間たちと

タカ:

我々がチャレンジしている建設機械の領域は、インドネシアでも大いにチャンスがあると考えています。何より国が急速に成長している、でも、その割にまだまだインフラは脆弱だから。そんな中で、我々のサービスが間接的にインドネシアの基盤づくりに大きく貢献できるはずだと。その挑戦を支えるのは、まず杉本さんの市場理解と負けん気の強さ、現場で揉まれながら必要とされるソリューションをかたちにできる土屋さんの実装力、日本人の強みを活かしたきめ細やかなサービスオペレーション、そして、自国とThree Tigerの成長を信じて一緒にチャレンジしているインドネシアの仲間たち。既に力強い体制ではあるけど、ただ、足りないことも多すぎるから、このインタビューを読んで興味を持ってくれる方がいたら、日本からもぜひ飛び込んできてほしいね。

杉本:

僕らのチームは真面目で誠実なんです。仕事に対するコミットメントもある。インドネシア人はよく遅刻する言いますけど、うちのチームにはそんな人いないんですよ。設定した目標に対して最高評価を得るためには何が必要かと質問してきたり、それに挑戦したりしようとするメンバーもいます。彼らはしっかりとした視座と向上心を持っています。ただ、インドネシアに来ていろんな人と働いたり話したりしてわかったのは、日本と違って、計画や目標を立てたり仕事の段取りをしたり、鳥の目や蟻の目で物事を捉えたりする、いわゆる仕事の考え方ややり方といったソフトスキルをインドネシア企業では教えてないってことです。言ってしまえば、全員が我流で仕事してるんですよね。そのことに最初はすごくフラストレーションがあったんですけど、背景を知ってからは、考え方からしっかりと教えてあげることを心がけています。チームの皆さんも学ぶ意欲が高くて、ちゃんと吸収・実践してくれます。例えば、最初は受け身で、顧客と対峙したときにうまく立ち回れなかった若手メンバーでも、お手本を見せてあるべき姿をフィードバックしてあげたら、もっとレベルアップしたいと言って、自らセールストークや商品知識を得るための特訓セッションを求めるようになってきました。そういう変化が少しずつ起きてます。おこがましい考えですが、日本の優れた仕事の仕方や考え方はまだまだあるので、それをもっと教えていきたいですね。時間はかかると思いますけど、結局、チームの成長が会社の成長なので。建機のことは知らなくても全然大丈夫。知識はキャッチアップすればいい。それよりも、日本のやり方をテンプレ的に押し付けるのではなく、「プロの仕事」をインドネシアメンバーやお客様とすったもんだやりながら一緒に実現し、インドネシアで一番仕事のレベルが高い会社をつくれるよう、自らが泥まみれになってやれる馬力のある方にぜひ仲間として加わって欲しいですね。

タカ:

勝てるビジネスとチームの両方の立ち上げフェーズっていう、エキサイティングな環境なのは間違いないよね。

杉本:

僕は前職では個人技タイプでしたが、会社を経営するようになって、本当にチームのパワーを感じるようになりました。巷にある個人主義って、見方を変えれば自己満でもありますよね。自己満はええけど、世の中が前に進んでる中で、止まってんのはお前だけやぞってことにもなりかねない。自分らしく自分のペースでっていうんもわかりますけど、自分の価値は何やと自問し、何でもいいんで、世の中に価値を残す活動をしてほしいなと思いますね。

タカ:

組織よりも個人が尊重される流れが比較的強い時代でもあるけど、やっぱり チームで協力する、そして勝つことって大事だよね。

杉本:

インドネシアはこれから間違いなく大国になるでしょう。熱気があって、いろんな新しいサービスがものすごく盛り上がってます。でもまだみんな消費側なんですよね。Netflix見て、Shopeeで買い物して、Tiktok見て。君らつくってないねん!つくる側に行こうや!その方が絶対おもろいって!とチームにもよく話してます。日本もそうですよ。どんな形でもいいと思うんで、何かを生み出すっていうのが国力なんですよ。

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