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Cross-Region Seed Map #2 量子コンピュータの現在地

アジア

なぜ今、量子コンピュータなのか

かつて「夢の技術」とされた量子コンピュータが、近年になって急速に現実味を帯び始めています。その転機となった象徴的な出来事の一つが、2019年にGoogleが発表した「量子超越性(Quantum Supremacy)」の実証です。わずか53量子ビットのプロセッサ「Sycamore」を用い、世界最速のスーパーコンピュータでも1万年かかる計算を約200秒で解いてみせた成果は、GoogleのCEOであるSundar Pichaiが「ライト兄弟の初飛行になぞらえられる」歴史的偉業だと語っています。ライト兄弟の飛行機が12秒しか飛べなかったように、この実験自体には直接的な実用価値はありません。しかし、「飛行機が飛べる」ことを示した初飛行が航空産業の幕開けとなったように、「量子計算が古典計算を凌駕し得る」ことを示したこの成果は量子コンピュータ研究の大きなマイルストーンとなりました。

こうした米国企業のブレークスルーに刺激され、量子コンピュータを巡る世界規模の競争が一気に熱を帯びています。米国、中国、欧州連合(EU)など各国・地域は量子技術を次世代の国家競争力の要と位置づけ、巨額の資金を投じた国家プロジェクトを次々と立ち上げました。例えば米国は国家量子イニシアチブ法の制定(2018年)により研究開発を加速し、中国も国家主導で量子研究ネットワークや国家量子研究センターを整備しています。「新たな世界覇権争いの行方を左右する基盤技術の一つ」と見なされているためです。実際、IDCの推計によれば2027年末までに世界の政府と企業から量子コンピューティング開発に投じられる投資額は累計164億ドル(約2兆円)に達する見込みです。こうした追い風の中、IBMやGoogleといった米テック大手のみならず、AmazonやMicrosoft、さらに中国や日本の企業までこぞって量子開発に参入する状況が生まれています。

特にハードウェアの進歩は目覚ましく、量子ビット数の増大が日進月歩で続いています。IBMは2016年にクラウド上で一般公開の量子プロセッサ(当時5量子ビット)を提供して以来、毎年着実に性能を向上させ、2021年には127量子ビットの「Eagle」、2022年には433量子ビットの「Osprey」と、世界最大規模のチップを次々と発表しました。さらに2025年までに4,000量子ビット超の商用システムを実現するロードマップを公表しており、従来のムーアの法則(半導体性能が約2年で2倍)すら凌駕するペースでの技術進化を目指しています。Googleも「2030年までに100万量子ビット級の量子コンピュータを開発する」という大胆な目標を掲げ、誤り耐性(エラー訂正機能)を備えた大規模量子計算機の実現に取り組んでいます。また中国では、中国科技大学(USTC)の潘建偉教授らのチームが2020年に76個の光子を用いた光量子コンピュータ「九章」で量子超越性の実証に成功したと発表し、翌2021年には66量子ビットの超電導量子プロセッサ「祖冲之」による計算でも同様の成果を報告しました。さらに中国企業も国家プロジェクトと連携して大規模機を開発しており、2024年には中国電信の子会社とスタートアップが512量子ビット規模の「天演(てんえん)-504」を完成させたと伝えられています(IBMの最新機と肩を並べるキュービット数であり、コヒーレンス時間や読み出し精度でも遜色ないレベルに達したとされています)。

このように各国・企業がしのぎを削る中、「なぜ今、量子コンピュータなのか?」という問いへの答えは大きく二つあります。一つは前述の通り技術的な臨界点に達しつつあることです。長らく理論研究や数個の量子ビット実験に留まっていた量子計算が、50~100量子ビット規模で動作する「NISQ(ノイジー中規模量子)デバイス」の時代に突入しました。この規模はまだ誤り訂正ができないため計算結果にノイズを含みますが、工夫次第では特定の計算で既存計算機を凌ぐ「量子優位性」を発揮しうることが示されたのです。もう一つは社会的・経済的な要請です。ムーアの法則の減速により従来型コンピュータの性能向上が頭打ちとなる中、AIの急速な発展で爆発的に増大する計算需要に応えるには、量子コンピューティングのような新原理の計算技術が不可欠だと考えられています。各国政府が量子技術を国家戦略に盛り込み、安全保障上も重要視するのはそのためです。中国の習近平国家主席は2020年の講話で「量子技術は従来の技術体系を再構築し得る破壊的イノベーションであり、国家安全保障の確保に極めて重要」と述べ、量子分野で先手を打つ必要性を強調しました。米国でもバイデン大統領が2022年に米企業や投資家による対中量子技術投資を制限する大統領令に署名するなど、量子コンピュータは地政学的な注目を浴びています。IBMのArvind Krishna CEOも「ここ4年で量子分野で驚くような進展が起きるだろう」と2025年の講演で述べ、量子コンピュータが「今この十年以内に実用化段階へ入る」との見通しを示しています。

もっとも、現状では量子コンピュータはまだ研究段階であり、多くの専門家は「過度な期待は禁物だが、着実に前進している」というスタンスです。ボストンコンサルティンググループ(BCG)は2024年の報告書で「量子技術の変革潜在力は依然大きいが、真に商業的な優位性を発揮するにはまだ至っていない」としつつも、「それでもモメンタムは否定できない」と述べています。実際、2022~2023年にかけてハイテク投資が世界的に減速する中にあっても、量子コンピューティング分野には2023年だけで12億ドル超のベンチャー投資が流入するなど、産業界の期待は衰えていません。また各国政府も「量子覇権」を見据えて今後数年で公的資金1兆円規模を追加投入する計画を表明しており、研究開発を下支えしています。このように「技術的成熟」と「競争の激化」が相まって、量子コンピュータの波が今まさに押し寄せているのです。

想定される応用市場・事業領域とその理由

では、量子コンピュータは具体的にどのような産業・分野で価値を発揮すると期待されているのでしょうか。その答えは、「現在のコンピュータでは解決が難しい高度な問題」を抱える領域です。マッキンゼーの分析によれば、化学・ライフサイエンス(材料・創薬など)、金融サービス、輸送・物流、情報セキュリティの4分野が量子コンピューティングによって最も早期の恩恵を受ける可能性が高く、2035年までにこれらで最大1.3兆ドル(約170兆円)の価値創出ポテンシャルがあるともいわれます。以下、主要な応用領域とその理由を順に見ていきます。

1. 創薬・材料開発(化学・ライフサイエンス分野): 量子コンピュータの真価が最も発揮されると考えられているのが、分子や化学反応のシミュレーションです。医薬品候補となる分子の振る舞いや、新素材の特性を原子レベルで精密に計算することは、現在のスーパーコンピュータでも極めて困難です。分子内の電子の動きや量子力学的な効果を正確に解くには計算量が指数関数的に膨れ上がり、「カフェイン分子の全状態を解析するには2^43通り(兆を超える膨大な数)の組み合わせを考慮する必要がある」といった例もあります。Google CEOのSundar Pichai氏は「古典計算では分子の基礎的構造すら理解できていない。それゆえ気候変動対策にしろ新薬開発にしろ、いつか量子計算が進歩の原動力になると確信している」と述べています。実際、量子コンピュータは「自然(化学)の振る舞いを忠実に再現できる」潜在力があり、複雑な分子のエネルギー状態や反応経路を計算することで、創薬ターゲットの評価、新素材・新触媒の設計、高効率なエネルギープロセスの開発などに革新をもたらすと期待されています。例えば肥料生産に使われるハーバー・ボッシュ法(工業的窒素固定)は世界のCO2排出の約2%を占めますが、自然界では酵素がより低エネルギーで同様の反応を実現しています。量子計算によってこうした酵素の働きを解明できれば、産業プロセスの大幅な省エネ改善も夢ではありません。製薬大手や化学メーカー各社は既に量子コンピュータによる分子シミュレーションの実証実験を開始しており、創薬ベンチャーと量子スタートアップの提携も進んでいます。マテリアルズ・インフォマティクスやデータ駆動型の材料開発に量子計算を組み合わせることで、新薬や新素材の開発リードタイムを飛躍的に短縮できる可能性があるからです。

2. 金融サービス・経営管理(ファイナンス分野): 金融業も量子コンピュータの主要な適用先として頻繁に言及されます。その理由は、金融工学の世界に複雑な最適化問題が数多く存在するためです。例えばポートフォリオのリスク最適化、大量の取引データに基づく不正検知、高速取引アルゴリズムの組み合わせ探索など、金融機関が直面する計算課題の中には組み合わせ爆発的な難題が含まれます。中でも著名なのがデリバティブ(金融派生商品)のプライシングです。オプション取引などではモンテカルロ・シミュレーションと呼ばれる大量の確率計算が必要ですが、量子コンピュータ上のアルゴリズム(例えば振幅推定アルゴリズム)を使えば、理論的には計算速度を大幅に向上できることが示されています。実際、IBMと米大手銀行JPMorgan Chaseは協業で量子コンピュータによるオプション価格評価を試み、古典計算機による手法と比べて少ない試行回数で高精度を達成できる可能性を報告しました。さらに市場全体の動きを予測するシナリオ分析や、大規模な投資ポートフォリオのリスク管理などにも量子最適化の応用が研究されています。マッキンゼーの試算では、金融業界で量子コンピューティングが生み出す価値は最大で約7,000億ドルに達するとされ、これは他分野と比べても極めて大きなポテンシャルです。既にJPモルガンや三菱UFJ銀行をはじめ多くの金融機関が専任の量子研究チームを設置し、リスク管理モデルの量子化やポートフォリオ最適化の検証プロジェクトを進めています。また保険業でも、莫大な組み合わせを伴う保険引受や再保険契約の最適化に量子アルゴリズムを適用する試みが始まっています。

3. 輸送・物流・製造(オペレーション最適化分野): 大規模な組み合わせ最適化は金融以外にも、サプライチェーン管理や輸配送の計画、製造プロセスのスケジューリングなど至る所に存在します。量子コンピュータや量子アニーリングマシン(量子効果を利用した最適化専用マシン)は、これら組み合わせ問題に対して新しいソリューションを提供すると期待されます。実際、交通最適化の分野ではフォルクスワーゲン社が量子アニーリング技術を使った交通流最適化の実証実験を世界で初めて成功させています。同社は2019年、ポルトガル・リスボン市内のバス路線においてD-Wave社の量子マシンを用いたリアルタイムのルート最適化を試行し、渋滞を緩和する経路案内に量子計算を役立てられることを示しました。またトヨタ自動車や現代自動車といったメーカー各社も、生産ラインのスケジューリング最適化や物流網の経路最適化に量子コンピュータを使う研究を進めています。これらはいずれも組み合わせの選択肢が天文学的に膨大となる課題で、現在は経験や近似アルゴリズムで対応していますが、量子計算によってより厳密で高速な最適解に近づける可能性があります。特にサプライチェーン分野では、昨今のパンデミックや地政学リスクで物流網の強靭性確保が重視されており、量子技術で最適な在庫配置や配送計画を導く研究にも注目が集まっています。

4. セキュリティ・暗号(情報通信分野): 「量子コンピュータの脅威」という側面から特筆すべきなのが暗号技術への影響です。現在、金融取引やインターネット通信のセキュリティを支えるRSA暗号や楕円曲線暗号は、巨大な数の素因数分解や離散対数問題を計算することの困難さに安全性を依存しています。ところが1994年に発表されたショアのアルゴリズムによって、理論上は十分な量子ビット数を持つ量子コンピュータならRSAなど現行の公開鍵暗号を短時間で破れることが示されています。実用に必要な量子ビット数(数百万ビット規模と推定)にはまだ達していないものの、量子コンピュータの進歩を見据えて「ポスト量子暗号」への移行準備が急務となっています。米国国立標準技術研究所(NIST)は2022年に量子耐性暗号の標準アルゴリズムを選定し始めており、日本や欧州も追随しています。また、将来的に量子コンピュータが完成すれば高度な暗号解読だけでなく、量子通信・量子暗号という新たな安全保障インフラも台頭するでしょう。中国は量子通信衛星「墨子号」を世界に先駆けて打ち上げるなど(2017年)量子暗号分野でも攻勢を強めており、量子安全保障を巡る国際競争はビジネスのみならず国家戦略の次元で展開されています。企業にとっても、自社の機密データを“未来の量子ハッカー”から守るための対策(古典暗号の更新や量子鍵配送の活用など)を中長期的なリスクマネジメントとして検討する必要が出てきています。

以上のように、量子コンピュータは「計算がボトルネックとなっている領域」を中心に幅広い産業でゲームチェンジャーになる可能性を秘めています。もっとも、その恩恵の現れ方は段階的と予想されています。BCGは量子コンピューティングの市場成熟を3つのフェーズに分けています。第一段階は2030年頃までのNISQ時代(小規模な量子機で部分的な価値を創出)、第二段階は2030年代の量子アドバンテージ時代(誤り訂正なしでも古典計算機を凌ぐ実用計算が可能に)、そして2040年以降の完全な誤り耐性時代(大規模な汎用量子計算機が実現)です。現状はまだ第一段階にあり、例えば材料・化学分野で年間1億~5億ドル程度の価値創出に留まると見込まれていますが 、それでも実証実験の成果は徐々に積み上がりつつあります。日本でも、三菱ケミカルや富士フイルムが量子計算による材料開発の可能性を探り、JALやJR東日本が量子最適化で運行ダイヤの改善を試みるなど、大手企業が先行してPoC(概念実証)に取り組む動きが広がっています。将来を見据えた人材育成やエコシステム形成も重要です。幸い、近年は各国の大学・大学院で量子情報を専攻する学生も増えており、量子コンピュータを使いこなせる人材プールが着実に拡大しています。

なお、地域別の企業動向としては、米国ではIBMやGoogle、マイクロソフト、AmazonなどIT大手が量子クラウドサービスやハード開発に鎬を削り、スタートアップではIonQやRigetti、D-Wave(量子アニーリング専業)などが台頭しています。中国では当初、阿里巴巴(アリババ)や百度(バイドゥ)といったテックジャイアントが研究開発を主導し、とりわけアリババは中国科学院との合同研究所を設立(2015年)しクラウド上で11量子ビット機を実験提供するなどしていました。しかし最近になり両社とも方針転換し、2023年末に相次いで自社の量子研究部門を閉鎖する動きが報じられました。アリババは研究機材を浙江大学に寄贈し、百度も研究成果を北京の量子情報科学研究院(BAQIS)に移管するなど、中国では量子開発を民間から政府系機関へ集約する流れが生まれています。その背景には、米国の対中輸出規制で量子関連の部品入手や海外人材との交流が難しくなったこと、さらに生成AIブームで経営資源をAI分野に集中したい思惑などが指摘されています。一方、日本では富士通NTTなどの大企業が量子コンピュータ研究を牽引しています。富士通は理研と共同で日本初の超電導量子コンピュータを開発し、2023年に64量子ビット機の稼働を公表しました。これにより日本も量子計算ハードウェアを自前で開発できる技術基盤を築き、今後のハイブリッド計算(量子機+スーパーコンピュータ)環境の構築を目指しています。またNTTは光通信の強みを活かし、理研・ベンチャー企業と提携して世界初の汎用光量子コンピューティング基盤を開発しました。2024年には光子を使った大規模な光量子計算機(時間多重型で100モード以上)をクラウド上で一般提供し始めており、超電導方式とは異なるアプローチでも日本発の技術が存在感を示しています。このように各国それぞれの強みを活かした量子コンピュータ開発が進展しており、ビジネスパーソンにとっても「量子計算機によって何が変わるのか」を見据えることが益々重要になっています。

AIと量子コンピュータの関係性

近年、テクノロジー業界で「AIと量子コンピュータ」はともにホットトピックとして語られることが増えました。生成AI(Generative AI)の驚異的な進歩に沸いたのが直近の数年間ですが、一方で量子コンピュータへの注目も高まっています。この二つの革命的技術の間に相関関係はあるのでしょうか、それともそれぞれ独自の道を進んでいるのでしょうか。

まず指摘できるのは、現時点ではAIブームと量子コンピュータ開発は直接の技術的連動はしていないということです。深層学習を中心とする現在のAI技術は主にGPUや専用半導体上で動作し、量子コンピュータがその計算に寄与している例はありません。言い換えれば、ChatGPTのような高度なAIモデルも、その学習も推論も100%古典計算機資源で行われています。したがって「AIの発展が量子コンピュータ需要を直接押し上げている」というよりは、むしろAIの計算需要の爆発が将来の計算資源不足を予感させ、それに応える新技術として量子コンピュータへの期待が高まっている、という関係性です。実際、AI研究が進むにつれ計算コストやエネルギー消費が大きな課題となっており、従来型コンピュータの延長線上では解決困難な問題も出てきました。そうした「古典計算アーキテクチャの限界」に挑むものとして、量子コンピュータが注目を集めている側面があります。

一方で、AIと量子のシナジー(相乗効果)に期待する声も少なくありません。IBMのArvind Krishna CEOは「AIと量子コンピュータは互いに補完的な関係にある」と述べています。彼によれば、AIは大量のデータからパターンを学習し人間並みの知的タスクをこなす一方、量子コンピュータは膨大な組み合わせや確率的な問題を解くのが得意であり、それぞれ得意分野が異なるとのことです。実例として、「カフェインが人に活力を与える仕組み」はAIには解明できないが、量子計算なら分子レベルでその理由を探れるかもしれない、とKrishna氏は説明しています。つまりAIは経験的な相関関係を見出すのに優れ、量子コンピュータは自然法則に根差した因果関係の解明に力を発揮するというのです。このように「AI=高等代数、量子=確率論的な超高等数学」になぞらえて両者の違いを示しつつ、「両者は競合ではなく協調して課題解決に当たるものだ」と強調されています。

実際、専門家の間でも「AIと量子は競争というより協働関係」という見方が有力です。現在はAI(古典計算)がスケールする問題解決で優位に立っているものの、クラシカルな手法では手に負えない深い複雑性の問題領域では量子計算の出番が来る、ということでしょうか。このように中長期的にはAI+量子の組み合わせが相互に助け合い、人類が直面する難題(創薬や気候変動対策など)に挑む姿が展望されています。

もっとも短期的には、AIの進歩が量子コンピュータへの期待値を下げる要因になっている側面も否めません。最近MITテクノロジーレビューで議論となった記事では「量子計算が得意とされる分子シミュレーションですら、古典計算上のAIモデルで代替できてしまう可能性」が示唆されました。実際、ディープラーニングを活用した化学計算手法(いわゆるディープマインド社のAlphaFoldのように、生物分子構造予測などでAIがブレークスルーを起こしたケース)が台頭しつつあり、従来「量子コンピュータでなければ難しい」と思われていた問題に対してもAIによる近似解が得られる場面が増えています。BCGの2024年報告書も「ハードウェア開発の困難さに加え、古典計算側からの競合が予想以上に激しい」ことをNISQ時代の過大な期待が修正された一因に挙げています。特にAI(古典)が科学分野で期待以上の成果を出し、従来は難しかった問題にも古典的な解法が見えてきたため、量子計算に託されるニーズが以前より減ったと分析されています。換言すれば、「量子コンピュータが成熟する前に、AIを含む従来技術でかなりの部分が解決されてしまうのではないか」という懸念です。

しかしこれは裏を返せば「量子とAIが協力すればより強力」とも言えます。前述のMIT記事でも触れられたように、量子コンピュータは今後、AIシステム自体の高速化や省電力化に寄与する可能性があります。たとえば量子計算によって機械学習アルゴリズムを加速したり、大規模AIモデルの学習に必要な最適化計算を効率化できれば、AIのエネルギー消費問題を緩和できるかもしれません。実際、量子機械学習(Quantum Machine Learning)という学術分野も盛り上がりつつあり、量子回路上で動くニューラルネットワークや量子データを活用するAI手法が研究されています。また逆にAI技術を量子コンピュータ開発に使う試みも進んでいます。量子ビットの誤り訂正コードの設計をAIで最適化したり、量子チップのキャリブレーション(調整)に機械学習を用いる例も出始めました。つまりAIと量子はお互いを高め合う関係にあり、長い目で見れば「計算」という広い枠組みの中で融合していく可能性すらあります。IBMなどが提唱する「量子中心型スーパーコンピューティング」というビジョンでは、クラウド上で量子計算資源とAIを含む古典計算資源がシームレスに連携し、ユーザーは意識せず最適なリソース配分で計算問題を解決できる未来像が描かれています。

まとめると、AIの進化と量子コンピュータの台頭は必ずしもトレードオフの関係ではなく、むしろ相互に刺激を与え合う関係と言えます。確かに短期的にはAIブームの陰で量子技術の進展が目立ちにくくなっていますが、各国政府やトップ企業は腰を据えて量子開発を継続しています。先述の通りIBMのKrishna CEOは2025年の講演で「AIで扱えない深層の問題に量子が答えを出し、両者は競合ではなく補完し合う」と語りました。その言葉通り、AIがもたらすインテリジェンスと量子コンピュータがもたらす計算パワーが組み合わされば、これまで解決不能だった難問に人類が挑めるようになるでしょう。例えば新薬開発では、AIが有望な分子を創出し量子コンピュータがその性質を精密に評価する、といった協業が期待できます。またビジネスにおいても、AIが需要予測し量子計算が最適な生産計画を提示する、といった形で両技術を統合することで真価が発揮されるはずです。現時点では発展段階が異なる両者ですが、将来のデジタル戦略にはAIと量子の両輪が欠かせないという認識が経営層にも浸透し始めています。量子コンピュータ単独のブームではなく、AIを含めた計算技術全体の進化の中で量子技術を位置付ける視点が重要になるでしょう。

🇯🇵🇮🇩🇻🇳🇮🇳における量子コンピュータの現在地

政府および民間の投資額

翻って、私たちが投資拠点を置く日本・インドネシア・ベトナム・インド4カ国の量子コンピュータ分野への投資規模を見てみると、各国で大きな差があります。日本政府は近年、量子技術に対して累計で約300億円(約2.8億ドル)規模の投資を行っており、2050年までに汎用耐故障型量子コンピュータを実現することを目標としたムーンショット計画に150~200億円を投じる予定です。さらに2024年度の補正予算では、半導体・AIと並んで量子技術の開発予算として1.5兆円規模が割り当てられており、デジタル産業基盤強化の一環に位置付けられています。民間では富士通、東芝、NTTなど大企業が研究開発に資金投入しており、日本発のスタートアップへのVC投資も累計数十億円程度とみられます(直近10年間で約7,150万ドル超との推計もあります)。一方、インド政府は2020年に国家量子技術応用ミッション(NM-QTA)を発表し、5か年で800億ルピー(約9.66億ドル)の予算枠を設定しました。実際、2023年に内閣が600.3億ルピー(約7.3億ドル)規模で国家量子ミッションを正式承認しており、量子通信・計算・センサなどの分野を重点支援しています。インドの民間投資はまだ小規模で、民間の量子関連投資総額は約1,200万ドル程度との指摘があります(米国の約3億ドルと比べると250分の1)と言われます。

インドネシアとベトナムでは、政府の量子コンピュータ分野への投資は 極めて限定的 です。インドネシア政府は2022年に国家研究イノベーション庁(BRIN)傘下に量子物理学研究センターを設立しましたが、その予算規模は先進国と比べごくわずかです。公表された国家戦略はまだありませんが、2045年の「黄金期」までに量子技術の知識基盤とインフラを整える長期ビジョンを掲げています。ベトナムも2022年に首相決定で「2030年までに量子技術を研究・マスターする」との国家方針を示しましたが、具体的な予算額は明らかになっていません。要するに、日本やインドに比べインドネシア・ベトナムの公的投資は桁違いに小さく、民間からのVC投資もほとんど見られない状況です。

研究開発拠点数と主要プロジェクト

日本には量子コンピュータ研究の拠点が多数存在します。政府主導のQ-LEAP(Quantum Leap)プログラムの下、国内の大学・研究機関・企業が連携して量子シミュレーション計算、量子センシング、超短パルスレーザーといった重点領域の研究開発を推進しています。主要拠点としては、理化学研究所の量子コンピューティング研究センター (RQC)が挙げられます。RQCでは中村泰信氏を中心に超伝導量子ビットや光量子計算などハードウェアからソフトまでフルスタックの研究を展開しており、複数の研究チームで数十名規模の研究者が最先端開発に従事しています。また、東京大学とIBMの協業によりIBM Quantum System One(127量子ビット「Eagle」プロセッサ)が川崎市に設置され、2021年より稼働しています。これは日本初の商用ゲート型量子コンピュータであり、東京大学を中心に産学連携コンソーシアムが利用しています。さらにNTTや東北大学などでの量子暗号通信網の実証、富士通と理研による量子シミュレータ開発など、多彩なプロジェクトが進行中です。国内に点在する大学(東京大、京大、東工大など)にも量子情報研究グループがあり、2025年時点で東京大学の量子関連プロジェクトは64件登録されていると報告されています。

インドも国家プロジェクトの下で研究拠点を整備しつつあります。代表的なのはタタ基礎研究所(TIFR)で、ここで同国初の量子コンピュータ(おそらく超伝導方式)の構築が進んでいると報じられています。また、首都デリーのセンター・フォー・ディベロップメント・オブ・テレマティクス(C-DoT)には量子通信ラボが設立され、自国開発の量子鍵配送(QKD)ソリューションの実証に成功しました(2021年)。学術界では理論研究で定評のあるIIScバンガロールや主要 IIT(ムンバイ、デリー、マドラスなど)に量子テクノロジー研究室が設けられており、量子計算や量子材料の研究、人材育成が行われています。例えば、2018年開始のQuESTプログラムの下でIIScやIITをハブとするプロジェクトが展開され、量子計算シミュレータ開発などが進みました。インドは量子分野の基礎研究者が約110~145人いるとの推計もあり(関連領域含め約200人のPI)、これら人材が全国の大学・研究所に点在しています。政府は今後、全国にいくつかの量子技術ハブを設立し、企業やスタートアップも巻き込んだ研究開発拠点ネットワークを構築する計画です。

インドネシアでは、本格的な量子計算研究拠点はまだ限定的ですが、芽生えは始まっています。2022年設立のBRIN量子物理学研究センターが国内中核となり、量子情報・計算グループ量子シミュレーション量子デバイス等7つの研究グループに計35名ほどの研究者が所属しています。これはインドネシア初の国立量子研究拠点で、「第二の量子革命」に備える基盤作りを目指しています。大学では、スラバヤのインドネシア技術院(ITS)が量子コンピューティング&情報グループを2022年に立ち上げ、国内初の学術コミュニティとして国際共同研究や人材育成を進め始めました。バンドン工科大学(ITB)でも量子情報の講義が開講され、学生がシミュレータで量子プログラミングを学ぶ試みがなされています。ハードウェア面では、中国企業SpinQが提供するデスクトップ型核磁気共鳴(NMR)量子コンピュータが2023年にITBへ導入され、インドネシア初の量子計算機となりました。これは教育・研究用の小規模な装置ですが、国内で量子コンピュータを実機体験できる環境が生まれた意義は大きいといえます。

ベトナムでは、量子計算の専門拠点はまだ目立っていませんが、一部の研究所が活動しています。ホーチミン市のベトナム科学技術アカデミー (VAST)傘下には理論物理研究室があり、量子物理や計算の理論研究を行っています。またハノイ国家大学やベトナム国家大学ホーチミンなどで量子情報に関する研究グループや留学経験者がポストについており、小規模な研究を進めている状況です。政府は「2030年までに量子技術をマスターする」との戦略目標を掲げたものの、実現のための具体的プロジェクトはこれからです。ただし国際協力の動きもあり、例えばロシアのロスアトム社がベトナムと量子技術での協力に意欲を示し、ベトナムの研究者を国際カンファレンスに招待するなど人材育成支援を始めています。将来的には大学に量子技術センターを設立し、海外の知見を取り入れながら通信や暗号への応用研究を進める素地を作ろうとしています。

スタートアップの数と代表企業

量子コンピュータ関連のスタートアップ動向を見ると、日本インドには徐々に企業が増えつつある一方、インドネシアベトナムではまだ黎明期です。日本では2025年1月時点で17社程度の量子コンピューティング系スタートアップが存在し、そのうち6社が資金調達済み(2社はシリーズA以上)と報告されています。代表例としては、QunaSys(2018年創業)が挙げられます。QunaSysは量子化学計算向けのソフトウェア開発に注力しており、企業コンソーシアム「QPARC」の運営や高速量子回路シミュレータ「Qulacs」の提供を行っています。同社はシリーズBまで進み、累計23.7百万ドル(約26億円)の資金調達を達成しています。ハードウェア分野ではNanofiber Quantum Technologies(2022年創業)が量子計算用チップや測定装置の開発で注目され、シリーズAで約9.9百万ドルを調達しました。このほか、量子バイオ計測のQuantum Biosystemsや量子暗号のQuemix、量子アルゴリズムコンサルのKandaQuantumなどが名を連ねます。大企業からのスピンオフや、海外で研究経験を積んだ人材の起業もみられ、日本のスタートアップエコシステムは着実に形成されつつあります。

インドでも量子技術スタートアップがこの数年で増えており、2024年時点で15~20社程度が存在すると推定されます。主要拠点の一つであるバンガロールだけでも量子コンピューティング関連企業が15社あり、うち8社が合計2,960万ドルほどの資金を調達したとの分析があります。代表的スタートアップには、QNu Labs(2016年創業)が挙げられます。QNu Labsは量子鍵配送や量子乱数生成器を開発する量子暗号通信スタートアップで、インド初の商用QKD製品を手掛けています。またQpiAI(2019年創業)は量子コンピュータとAIを組み合わせたソリューションを開発しており、超伝導量子計算機のプロトタイプ構築も目指しています。QpiAIは2024年にプレシリーズAで650万ドルの資金を調達し、ハードウェア開発を加速しています。ハードウェア分野では他にも、Dimira(極低温ケーブルの国産化)、QuNastra(量子用極低温機器や単光子検出器)、Pristine Diamonds(量子センサ向けダイヤモンド材料)など各要素技術にフォーカスしたスタートアップが誕生しました。インド政府もこれら有望スタートアップ8社を国家量子ミッションのもとで支援対象に選定し、官民でエコシステム強化に動いています。

インドネシアとベトナムでは、量子コンピュータ分野のスタートアップはほぼ未成熟です。両国とも量子技術を専門とする新興企業は数えるほどしかなく、大半は研究段階か関連サービス領域に留まります。インドネシアでは、量子という名を冠した企業が存在するものの(例:「Quantum Teknologi Nusantara」など)、実態はAIやITコンサルであり、量子計算そのものを扱う企業は確認されていません。むしろ量子安全保障(ポスト量子暗号)や量子鍵配送に関心を示す既存セキュリティ企業や、海外技術を輸入して教育提供する団体が少しある程度です。ベトナムでも同様に、量子暗号やポスト量子暗号の分野で大学発のプロジェクトやソフトウェア開発企業が芽生えつつあるくらいで、専業スタートアップはまだ登場していません。例えば、ハノイ工科大学の学生チームが量子乱数を利用したセキュリティソフトの試作を行った事例などが散見される程度です。総じて、インドネシア・ベトナムはスタートアップ数において日本(十数社)やインド(同程度)に大きく遅れており、資金調達例もほぼ見られません。

特許出願数と技術的強み

各国の量子技術に関する特許出願動向を比較すると、その差は歴然としています。特に中国米国が突出しており、その次の層に日本、さらに大きく離れてインドが続く状況です。インドは出願件数順位で世界9位に留まっており、上位国と比べ桁違いに少ないのが現状です。ただしインドは、量子暗号・耐量子暗号など一部領域では研究の質で世界トップ5に入るなど強みもあり、今後の特許取得で追い上げを図る可能性があります。インド企業ではQNu Labsが量子暗号装置で国内特許を取得した例などがありますが、全体的にはまだ特許ポートフォリオは薄いと言えます。

日本は、量子技術の特許で一定の存在感を示しています。東芝や富士通、NEC、日立といった大手企業が量子暗号、量子計算ハードウェア、量子材料に関する多数の特許を出願しており、主要企業合計で600件超の量子関連特許を国内外で出願したと報じられています。特に日本勢の強みは量子暗号通信(QKD)で、東芝は初期からQKD技術の研究開発をリードし関連特許を多数保有しています。また富士通は量子アニーリング(イジングマシン)のハードウェア実装や誤り耐性手法で特許群を形成しつつあり、NECも超伝導量子ビット技術で先行研究の実績があります。これら企業による国内出願のみならず、米欧中にも特許出願を行うことで国際的な知財網を構築しています。ただし、中国や米国の勢いは凄まじく、米国特許商標庁(USPTO)では過去10年で5,000件超の量子関連特許が付与されたとの分析もあります。中国も量子特許出願が近年年率120%で増加していることから、今後日本がそのペースについていくにはさらなる研究開発投資と知財戦略が必要でしょう。

インドネシアとベトナムにおける量子技術関連の特許出願はほぼ皆無に近い状況です。両国とも企業や大学から量子コンピュータそのものに関する特許出願の報告はなく、周辺技術(例えば暗号プロトコルや光学素子)のわずかな出願がある程度と推察されます。実際、ベトナムはまだ量子技術を「優先開発ハイテク」リストに入れた段階であり、具体的な知財創出はこれからです。インドネシア政府内でも、「このままでは他国が特許を握り、自国は利用者に留まる」との懸念が示されています。今後、インドネシア・ベトナムの研究者・企業が国際特許を取得し存在感を示すには、まず基礎研究の蓄積と人材育成が必要で、まだ時間を要するでしょう。

大学・研究機関の取り組み(教育プログラム・研究成果)

日本では大学や国立研究機関が量子人材育成に積極的に取り組んでいます。東京大学、慶應義塾大学、大阪大学、東北大学などは量子情報・量子工学の講座や大学院プログラムを設置し、学生に量子コンピュータ理論やプログラミングを教育しています。東京大学はIBMとの連携講座を開講し、国内博士課程学生がIBMの量子クラウドにアクセスして研究できる環境を整備しました。また、日本学術振興会や科学技術振興機構(JST)は量子関連のフェローシップやプロジェクト公募を通じて若手研究者を支援しています。その結果、日本からの学術論文産出も活発で、量子計算・量子暗号分野のトップ国の一つです。2000~2018年の科学論文データ分析によれば、日本の量子技術論文数は世界で上位に入っており、特に量子材料量子ハードウェアでは強みがあるとされています。研究成果の社会実装例として、東芝ヨーロッパ社とブリストル大学が連携した都市間量子鍵配送の実験には東芝の基盤技術が使われており、日本発の研究が国際的インパクトを与えています。

インドの大学・研究機関も近年量子教育を拡充しています。理工系トップ校のIIScや各地の主要IITでは量子力学の高度な授業に加え、量子情報理論や量子アルゴリズムの専門講義が開講されています。例えばIITマドラスは量子コンピューティングの入門オンライン講座を公開し、多数の学生・技術者が受講しました。またIITデリーやIISER(インド科学教育研究機構)のような新興研究大学でも量子コンピューティング研究グループが発足し、大学院生が量子回路設計や量子機械学習の研究に従事しています。出版される論文数も増加傾向にあり、2018~2022年のデータではインドは量子センシング分野の研究質で世界6位、量子計算でも11位につけています。特に耐量子暗号では質ランキングで世界5位と健闘しており、暗号数学と量子計算の融合分野で成果を上げています。インド政府は人材育成策として、IIScやIITを拠点に量子技術ハブを設立し、学生に奨学金を与えて博士課程で量子を専攻させる計画を持っています。例えばISRO(宇宙機関)やDRDO(国防研究開発機関)と連携した奨学制度で量子分野の高度人材を囲い込むなど、官民挙げて次世代研究者の育成に乗り出しています。

インドネシアでは、大学での量子コンピュータ教育はまだ始まったばかりです。先述のBRIN量子研究センターが主体となり、国内の大学と協定を結んで学生のインターン受け入れや講師派遣を行おうとしています。またITBやITSといった上位工科大学では、学部高学年や大学院向けに「量子情報」「量子アルゴリズム」の特別講義を設け始めました。ITBでは2024年に産官学セミナーを開催し、「Quantum Computingが将来産業に与える影響」というテーマで学生や企業技術者に啓発を行っています。その中で政府高官(海軍中将でもあるAmarulla氏)は「インドネシアには国家インフラ防衛のため量子セキュリティ技術が必要」と述べ、BRINが高性能計算機ネットワークを量子研究向けに準備中であることを紹介しました。このように、まずはポスト量子暗号や量子安全性への関心が高まっており、その分野で人材育成や研究が進みそうです。学生たちも、現在は主にシミュレーション環境で量子計算を体験していますが、先述のSpinQ社製マシン導入により実機実習の機会が得られる見込みです。ベトナムでもトップ科学大学で量子力学・量子情報の講義は存在します。ハノイ国家大学では物理学科に量子情報研究グループがあり、学生がIBMやGoogleの公開する量子クラウドにアクセスして卒業研究を行うケースも出てきました。政府はハイテク人材育成プログラムの中に量子技術を組み込むことを検討中で、2030年までに国内で量子技術の基盤を築くため海外からの帰国人材を集める施策(研究奨励金や設備投資)を打ち出す可能性があります。

新たなデジタルデバイド?

量子コンピュータ分野でも、大国と新興国の間で「量子デジタルデバイド」とも言うべき格差が広がりつつあります。政府・民間の投資規模の違いが、そのまま研究成果や産業発展の差異となって現れている状況が見て取れます。

例えば研究論文数では、米国中国が長年トップを争い、日本がそれに続く一方、インドはようやく上位10カ国に入る程度で、インドネシア・ベトナムは統計上ほとんど存在感がありません。実際、2000~2018年の量子技術論文数は米国約13,489本、中国12,110本に対し、インドは1,711本で世界10位でした 。論文の被引用数上位10%を見ると、米国が依然首位、中国も3位に入るのに対し、インドは20位とさらに後塵を拝しています。このように知的生産力の段階から大きな開きがあるのです。また前述した特許出願件数でも、日本はある程度健闘しているとはいえ、やはり投資で勝る中国・米国に比べれば数十分の一程度 で、インド以下新興国との差は決定的です。

政府予算・VC投資とスタートアップの状況も、投資額の差がそのまま企業数・調達額の差につながっています。日本や米国では数十社~100社超の量子スタートアップが競い合い巨額の資金を動かしているのに対し、インドはようやく十数社・総額数千万ドル規模、インドネシア・ベトナムはほぼゼロに近い状況です。このことは、資金ギャップが起業活動とイノベーションのギャップに直結することを示唆しています。量子コンピュータの研究開発には高度な設備投資と人材確保が欠かせず、国家的支援や大規模な民間資本なくしてブレークスルーを起こすのは難しい分野です。結果として、既に巨額投資を行っている国々が量子技術の知財と産業の主導権を握り、それ以外の国はその技術を「利用させてもらう」立場になりかねません。実際、インドネシアの政策立案者は「他国が特許を独占し、我々は単なるユーザーに甘んじる事態は避けねばならない」と警鐘を鳴らしています。このように、量子分野でも投資格差が技術格差に結び付きつつあるのが現状であり、デジタルデバイド(量子デバイド)の兆候が顕在化しています。

もっとも、一部の例外や打開策もあります。インドのように人的資源に強みがある国は、限られた投資でも理論研究やソフトウェア領域で健闘し、国際的なプレゼンスを高めています(耐量子暗号など)。またクラウド型の量子計算サービスが発達したことで、ハードを持たない国の研究者・企業でもIBMやAWSの量子計算機にリモートアクセスしてアルゴリズム開発を行うことが可能になっています。ベトナムなども、その利点を生かして自国学生に最新の量子プログラミング体験を提供しています。したがって、投資額の差が即絶望的な隔たりというわけではなく、創意工夫や国際連携である程度キャッチアップ可能な側面もあります。しかし中長期的には、やはり自前の研究開発基盤と産業を築くために相応の投資が必要となることは明らかであり、デジタルデバイド解消のため各国政府のコミットメントが問われるでしょう。

各国の起業家への示唆

以上の点を踏まえ、これから量子コンピュータ分野で起業を考える起業家に対して、各国ごとに次のような示唆が得られます。

  • 🇯🇵 日本: 日本は政府支援も比較的厚く、企業・大学との連携もしやすい環境です。その反面、既にIBMや富士通、NTTなど強力なプレイヤーが存在するため、スタートアップは自社のニッチな強みを明確に打ち出す必要があります。幸い、日本には量子計算応用先の産業(化学、金融など)も幅広く存在するため、産業課題に即したソフトウェアアルゴリズムやコンサルティングサービスで起業する余地があります。実際、QunaSysのように化学計算・材料開発ニーズに特化したスタートアップが複数社生まれつつあります。また、政府のQ-LEAP公募やNEDOの助成金に応募して初期研究資金を得ることも可能です。知財面では、日本企業は量子暗号やハードで強みを持つため、スタートアップは大企業との共同研究や特許クロスライセンスを戦略的に活用するとよいでしょう。加えて、日本市場だけでなく、アジア全体を視野に入れた展開(例:シンガポールや韓国の企業との協業)も競争力強化につながります。総じて、日本で起業する利点は安定した研究基盤と支援策にあり、それらを最大限活用してグローバルニッチを狙うことが成功の鍵となります。
  • 🇮🇳 インド: インドでは政府が今後5~7年で約10億ドル規模を投じ量子技術ハブやインキュベーションを進める計画であり、これは起業家にとって追い風です。国家量子ミッションの支援対象に選ばれれば、研究開発補助や設備利用など大きな恩恵を受けられます。一方で、民間VCからの大型投資はまだ期待しにくく、資金調達では政府助成金や戦略投資家を当てにする戦術が現実的です。インドの強みは優秀な人材層にあり、起業家はIITやIIScの研究者とチームを組むことで技術力を補完できます。特に量子暗号通信や量子センシングといった分野は国防や通信会社からの需要が見込めるため、有望です。実際にQNu Labsは国防用途の引き合いを得て成長しています。またインド市場特有のニーズ(例えば多言語対応の量子機械学習ツールなど)に応えるプロダクトも差別化になります。加えて、インドは英語圏である利点を生かし、グローバル企業との連携や海外受託開発も視野に入れると良いでしょう。米欧の量子企業がインド人材に注目しており、そこに協力する形で技術を蓄積し将来独自展開するといった段階的戦略も考えられます。産業政策とスタートアップ支援の組み合わせを戦略的に行う風土を持つインドの起業家にとっては、政府支援を梃子に基礎を固め、得意分野で国際展開を狙うというのが定石のアプローチになるでしょう。
  • 🇮🇩 インドネシア: インドネシアでは市場環境がまだ整っていないため、起業家は長期的視野とパートナー戦略が求められます。現状、量子ハードの開発拠点や投資家が皆無に近いので、独力で研究開発型スタートアップを興すのはハードルが高いでしょう。しかし、逆にブルーオーシャンとも言え、先行者利益を狙える側面があります。まず現実策としては、教育・人材育成サービスやコンサルティングから着手することです。例えば、企業や政府向けに「ポスト量子暗号」や「量子計算基礎トレーニング」を提供するビジネスは、将来の量子需要に備える意味で歓迎される可能性があります。加えて、海外企業(IBM、IonQなど)のローカルパートナーとして動く手もあります。IBMの量子クラウドのインドネシア代理店となり、現地企業にソリューション提案する、といった形であれば初期投資を抑えて量子ビジネスに参入できます。政府との関係では、BRINやICT省に働きかけ国家プロジェクトの立ち上げを促すことも重要です。起業家自ら政策提言を行い、自社がその実行役となるような位置づけを得られれば、公的資金を呼び込めます。また、シンガポールやマレーシアなど近隣で進む量子技術の動向にアンテナを張り、東南アジア地域のハブ戦略を描くことも有益でしょう。まとめると、インドネシアでは啓蒙者・橋渡し役としてのビジネスモデルから始め、エコシステム構築とともに徐々に製品・サービスを高度化させる道筋が現実的です。
  • 🇻🇳 ベトナム: ベトナムもインドネシア同様に初期段階ですが、政府が2030年までのハイテク戦略に量子を明記するなど関心は高まりつつあります。起業家にとってまず重要なのは、政府戦略や研究機関との連携です。例えば、国防省や情報通信省は量子暗号や安全保障への応用に興味を示す可能性が高く、そこに協力する形で事業機会を探せます。具体的には、安全保障用途の量子乱数生成サービスや、金融向けの量子安全通信モジュール開発などニッチから攻めると良いでしょう。ベトナムはIT人材が豊富でソフトウェア開発力が強みなため、ハードウェアよりもソフトウェアアルゴリズムやアプリケーション層で勝負しやすい土壌があります。たとえば量子アルゴリズムを用いた高速なデータ分析ツールを開発し、外国企業向けにアウトソーシング提供するビジネスも考えられます。また、日本や欧米の大学で量子を専攻したベトナム人留学生とのネットワークを作り、彼らをCTO人材として招へいすることで最先端の知見を取り込むことも重要です。ベトナム政府はスタートアップ支援に積極的であるため、量子技術が絡むプロジェクトであれば優遇措置を得られる可能性もあります。総じて、ベトナムの起業家は国際協力と政府支援をてこに、小さく始めて将来の市場拡大に備える戦略を取るのが望ましいでしょう。

最後に強調すべきは、量子コンピュータ分野は各国の科学技術力や経済安全保障にも直結する国家的プロジェクトであるという点です。ゆえに起業家といえど、単独で闘うのではなく、各国政府・大学・企業とのエコシステム作りにコミットしていく姿勢が成功のカギとなります。自国の強み(人材、産業、政策)を見極めて戦略を描きつつ、国際的な協調も取り入れて、この急速に進展する量子革命に参画していくことが重要です。各国それぞれチャレンジは異なりますが、本稿が各国の起業家の皆さんのビジネスプランをブラッシュアップする一助となれば幸いです。

参考文献

筆者

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