日本の誠実な防衛テックを目指して -安全保障×テクノロジーの領域でムーブメントを起こす-|Players by Genesia.
「どんなときに“楽しい”“嬉しい”と感じますか?」という質問に対して、「たぶん、一番嬉しい瞬間ってまだ来ていないんだろうなと、これから来るんだろうなと思ってます」という答えが返ってきました。
そんな方向性に触れたのは初めてで、少し驚きつつ。でも、「きっとそうなんだろう」と感じました。
自分自身のすべてを投じようと信じられるテーマ(事業・サービスのタネ)に対して、さて何から始めよう・・?という悩みはきっと苦しくもあり嬉しくもある。真の喜びは、そんな今を積み重ねた先にある。そんな、“スタートアップ起業家”の視線を改めて感じるインタビューでした。
スカイゲートテクノロジズは、日本発の防衛テックスタートアップとして、宇宙・サイバー・電磁波領域向けの防衛用プラットフォーム『Skygate JADC2 Alayasiki』をはじめとしたソリューションを開発・提供しています。「存続可能性に関する課題を解決する」をミッションに掲げ、ご自身の経験から日本の安全保障のビジョンをまっすぐに見据える粟津さんが目指す“日本らしい防衛テックの未来”とは?
そのストーリーについて、担当キャピタリストの一戸が聴きました。
- デザイン:割石 裕太さん、写真:尾上 恭大さん
- 聞き手・まとめ:ジェネシア・ベンチャーズ Relationship Manager 吉田
- 以下、敬称略
パソコンが大好きで、ずっと「都会に出たい」と思っていた学生時代
粟津さん、今日はよろしくお願いします。これは、起業家の方のパーソナルヒストリーを追っていくことで、これからのビジョンについての深掘りを試みるインタビューです。僕は時間軸ベースでお話を聴いていくことが多いので、幼少期、学生、社会人という流れで、粟津さんがどんな人でどんな意思決定をされてきたかを伺えればと思います。まずは幼少期のお話を聞いてもいいですか?
出身は、岩手県の北上市というところです。ちなみに、小学二年生まではもっと北の辺境の地みたいなところに住んでいて、その頃から「都会に出たい」とずっと思っていました。家族構成は、父と母、2歳下の妹。父は警察官で、母は専業主婦です。
お父さまは警察官なんですね。何か印象に残っているエピソードなどはありますか?
夜勤だったり、大きな事故があると出かけて行ってしまったり、不在なことが多かったです。そして、厳しく育てられました。ごはんは絶対に正座で!という家庭でした。
粟津さんは学校やクラスの中ではどんなキャラクターだったんですか?
凡庸な、特にキャラ立ちをすることのない、スクールカーストの真ん中くらいの存在でした。小学校の頃のことは実はあまり覚えていません。中学は荒れた学校だったので、とんでもない場所に来てしまったなと思った記憶があります。
勉強派、スポーツ派、ヤンキー派?どれかというと?
水泳をしてましたが、特に目立った成果もなく。中学生になってからは勉強を頑張り始めました。父親から「勉強しろ」というプレッシャーがあったのと、ちょうどその頃、父がいとこからパソコンをもらってきたことが大きかったです。『Macintosh Performa 588』っていう古いマシンなんですが、この出会いは衝撃的で、そこからパソコン少年になっていきました。
その頃からプログラミングにも興味を持ち始めたんですね。
中学校の生徒会室にどうやら『PC-98』というものがあるらしいと聞いて、それを触りたいがために生徒会に入ったくらいです。一緒に置いてあったマニュアルを見ながら、少しずつプログラミングにのめり込んでいきました。地元のジャスコでひたすら立ち読みしてコードを覚えて、家に帰って試す・・みたいなことを繰り返し繰り返し・・
かなり珍しい子どもだったんじゃないですか?
父親は「これからはパソコンの時代だ」「絶対に必要になるから買ってやる」という姿勢で応援してくれましたが、同じような趣味の友だちはいませんでしたね。インターネット回線のダイヤルアップポイントがない町だったので、そのポイントがある盛岡市に引っ越そうよ!と言ったときには、さすがに父親にもしこたま怒られましたけど。それで、「早く都会に行きたい」と思うようになりました。結果的には、当時のDDI(現KDDI)さんがどこの都道府県でも市内番号でインターネットが繋がるサービスを提供し始めてくれたので、僕は人生初のプレゼンテーションを作って、驚く両親を全力で説得して、見事インターネットの契約には成功しました。使いまくって何万円もの請求が来て、またしこたま怒られたんですけど。
大好きなパソコンに関する研究が実を結び、大学時代に起業
そこから地元の高校に進学されたんですか?
そうです。落ちたらパソコン没収するぞと言われたので、そのときはがむしゃらに勉強しました。その結果、成績トップで合格しました。あれが私の人生のピーク・・
まさか(笑)
そして、入学して最初の試験で赤点を取るという・・
なんと(笑) 高校ではどんな感じだったんですか?
高校ではもうスポーツへの興味はさっぱりなくなっていて、パソコンが触れる部活に入りたいなと思っていました。それで入ったのが、放送部。当時、私のいた高校の放送部は全国大会に行けるような強豪だったんです。「全国大会に出られれば東京に行けるらしい」という話も聞いて、パソコンに触れる!東京に行ける!という二軸で決めました。一年生の冬には東京行きも叶ったので、もう、してやったりという。
パソコンはどんな風に使ってたんですか?というか、ほぼ独学ですよね?
中学生の頃はゲームがしたかったのでゲームを作っていました。高校に入ってからは音楽を作ったり動画編集をしたり。本とかは参考にしてましたが、まだ良い情報はあんまりなかったので、独学の部分も大きくて、しょっちゅう壊してました。
音楽も好きだったんですね。
本業は放送部で東京を目指しつつ、副業で軽音部にも入ってました。
放送部はどうでしたか?あと、東京に行ったときの印象は?
東京すげーー!!電車いっぱい来るーー!!ってなりました。絶対に上京してこようと。放送部は、全国1位とはいきませんでしたが、6位か7位まではいきました。私はドラマ制作部門だったので、新しい技術をたくさん使いながらものづくりができて、すごくいい場所だったし楽しかったです。
そして、大学入学を機に念願の東京に・・
はい、慶應に入りました。高校一年生のときに三年生の彼女ができたんですが、彼女が卒業した後すぐに振られちゃったんです。彼女が早稲田だったので、俺は東大に行くぞ!と決めてがむしゃらに勉強しました。でも二浪しても東大はダメだったので、受かっていた慶應に進学しました。あとは高校と同じです。入った後はもう、ただただ自由にいろんなことをしてました。
特にインターネット経由で映像を送信する技術に興味があって、個人的にずっと研究していたら、当時ドワンゴの社員だった人に「それめちゃくちゃおもしろいし、お金になるんじゃない?」と言われて、それで初めて小さい会社を作ったんです。当然どんどんそっちが生活のメインになっていって、大学には数えるくらいしか行ってなかったと思います。そうしたらある日、学生課から呼び出されて、「粟津くん、放塾です」と。
「放塾」・・!!
休学もせずにだらだらと在学しながら会社をやってたら、いろいろ条件が揃ってしまったみたいで・・いわゆる退学みたいなものです。四年生のときです。
会社はうまくいっていたんですか?
年商2,000万円くらいは売り上げていました。でも、私は月に4日くらい働いたらあとはもう遊んでいたいというようなマインドで、そんなにやる気のある会社じゃなかったので、チームもずっとミニマムな状態でした。ちなみに、共同創業したあとの二人もそれぞれ別の会社の社長をしていて、今でも年に2-3回キャッチアップする仲です。
「10万人を動かす」とはどういうことか?を追究するために自衛隊へ
大学を放塾になって、会社はそんな感じで、そんなときに転機が訪れるわけですよね。
退学から一年くらいして、東日本大震災が起こったんです。それでボランティアに行ったんですが、実際に訪れてびっくりしたのが、自衛隊だけはパソコンも電話も普通に繋がるという状況だったことです。そんなとき、国が自衛隊を10万人動員しているというニュースを聞いて、それだけの人間が動くということはどういうことなんだろう?と興味を持ちました。そこで、東京に帰って自衛隊に問い合わせをしたら、すぐに横浜地方協力本部というところに呼ばれて、その場で国家公務員に申し込むことになりました。
東日本大震災がきっかけで起業したという話は聞いたことありますが、自衛隊に入ったという話は聞いたことないです。
私の中に、小規模な組織と大規模な組織は、同じ人間の集まりであるけど、全く違う何らかの機序で動いているんじゃないかという仮説と、それを確認したいという大きな好奇心と課題があったんです。だから、入隊試験を受けるときにも、陸海空の中で一番人数が多い陸上自衛隊を選びました。
組織への興味というのはやや唐突に聞こえますが、きっかけは何だったんですか?
やっぱり会社経営をした経験だと思います。もともと自分なりの組織論みたいなものも特にない状態で会社を回している中で、3-4人が限界かなというような感覚があったんです。10とか100人の組織なんて、もう想像もつかないなと。まして10万人なんて、一つの組織としてどうやって機能するの!?という感覚。もう、気になって気になって仕方なかったんです。
それで自衛隊に・・
もう実際に入らないとわからないんだろうと思ったんです。東日本大震災が3月で、公務員試験の〆切がちょうど4月や5月だったので、ぴったりのタイミングでした。そこから試験勉強をして試験を受けて、約一年後に入隊しました。
どんな試験なんですか?
普通の公務員試験です。士官階級と一般階級で試験区分が違うんですが、私は前者で、国家一種ほどではないですが、そこそこの難しさ。
入隊にあたって会社も畳んだんですか?
震災後の自粛ムードで広告関連の仕事は本当にほとんどなくなってしまっていました。それでもいろいろなことを細々としていたのですが、いよいよ閉めることにしました。
共同創業者の方々の反応はどうでしたか?
「うらやましい」って言われました。
「うらやましい」?
ずっとパソコンばっかりいじってきたのにいきなり自衛隊に行くとかいう、その発想と行動がうらやましくておもしろすぎると言われました。
粟津さんってたしかに、衝動的というか、興味や好奇心に直進するタイプですよね。目標がないとぶらぶらしてしまうところとか、明確な目標ができるとまっしぐらに頑張れるところとか、僕自身にもちょっと似た部分があるかなと感じています。組織やリーダーシップに興味があるところも。
その点、自衛隊という、国の立場や自分自身を含めた国民の生死がかかった戦略って相当に研ぎ澄まされてるわけじゃないですか。その戦略から経営戦略に活かせることもきっとあるはずですよね。
私も、いつかまた会社を作ろうと思って自衛隊に入ったので、会社と自衛隊という組織とを比較しながら、違いや共通点をずっとノートにまとめていました。その結果、自衛隊の中でもかなりの変わり者みたいに見られてました。
士官候補生学校から歩兵部隊を経て、通信部隊の本部へ
自衛隊に入隊すると、まずどこかに配属されるんでしょうか?
士官階級で入隊すると、まずは士官候補生学校に準ずる幹部候補生学校というところに行きます。そこでは9ヶ月間、非常に厳しい全寮制の学校生活が待っています。スケジュールが1秒遅れると腕立て伏せが付与されます。要は、例えば砲弾が届くのが1秒遅かったら死者が出るという、その感覚を身に付けろと言われます。めちゃくちゃきついんですが、ただ、仕組みがすごくよくできてるんです。この順番でやれば全員これができるようになるというプログラムがちゃんとあるので、強制的に強くなります。
一日はどんなスケジュールなんですか?
朝6:00に起きて、6:05までに所定位置について点呼と健康状態の確認をして、体力錬成、朝食、準備、整列、そこから先は大学みたいな感じでコマ割りされた授業を受けます。軍事的な戦術、兵器の扱い、あとはシンプルに体育や茶道なんかもありました。「将校のたしなみ」という授業で、パーティへの出席の仕方とかも教わります。それが人生で一番役に立ってるんじゃないかと・・カリキュラムがみっちりとあって、さらに並行して伝令や当直といったいろいろな役割があって、それらをこなしていく感じです。
何歳くらいの方たちがいらっしゃるんですか?
当時は26歳が上限だったので、私がほぼ上限でした。今はもっと緩和されているはずです。
スケジュール以外には特にどのあたりが厳しかったですか?
ルールの徹底がものすごいんです。毛布のたたみ方やTシャツの着方がずれてたり、左右のロッカーのハンガーの並び方が違ったり、そういったことでめちゃくちゃ怒られます。理不尽に感じることもありました。ただ、この厳しさには二つ意味があって、一つは、1クラスたった30人の集団であっても物事を揃えることがいかに難しいかということを学ばせるため。もう一つは、単に理不尽を学ばせるため。後者は、その時代や教官によってグラデーションがあるそうですが。学力や体力の試験もあるのでかなり勉強しないといけないですし、総合的に大変です。でも、間違いなく人生の中でも密度の濃い9ヶ月にはなります。
その後に配属があるんですか?
ある日全員が集められて、「●●候補生は●●駐屯地!」というような発表があります。場所もポジションも完全にランダムで、配属先ではさらに厳しい状況に対応するためのプログラムを受けることになります。私は通信のポジションに行きたいという希望が通って、まずは新潟の第30普通科連隊という戦闘部隊(歩兵部隊)で現場を理解してから、次は群馬の第12通信隊という通信部隊に属するという流れになりました。その後、若手はなかなか配属されない、市ヶ谷にある中央の通信部隊の本部へ行きました。当時は自衛隊がサイバーセキュリティの部隊を持とうと人材を集めていた時代だったので、タイミングがよかったです。
市ヶ谷はどうでしたか?どんなことを経験されたんですか?
えぇと・・話せることはほとんどありません。ただ、やっぱり階級の高い自衛官がいたり、米軍と関連する方たちとも繋がったりする場所なので、前線とは全く雰囲気が違いました。
自衛隊での重要な学びは、「構想」を伝えることと「余地」を持つこと
自衛隊での経験を通じて、一番の学びや今に活きていることって何ですか?
私がもともと自衛隊に入ったのは、東日本大震災の被災地に10万人が動員されたというニュースを聞いて、その人たちがどう動いてるかを知りたいという動機だったじゃないですか。その答えに納得できた瞬間が、やっぱり一番印象的でした。通信隊員を育てる陸上自衛隊の学校の教官の部屋に、大きな紙に印刷された「東日本大震災のシステム通信組織図」というものが置いてあったんです。ものすごく複雑で細かくて、よくこんなものを全国で実際に動かすことができたなと思いました。それを目の前にして、当時の前線にいた教官たちが、ここにはこんなトラブルがあったとかここは寝ずに考えたんだとかといった話をしてくれました。紙面上では見えないエピソードが一つ一つ詰まっていて、あぁこれが人を動かしてきたキーなんだと、直感的にびびっとくるものがありました。正しいミッションと確立された教育訓練、そこに対して余裕を持たせながらも厳しい局面で意思を徹底すること。それが10万人を動かした秘訣かと腹落ちした瞬間でした。
その気付きは、今の組織作りにも反映されていたりするんですか?
大いにしています。さっき一戸さんが、自衛隊で学んだ知識を経営戦略にも活かせるんじゃないかって言っていましたが、私は実は“直接は”活かせないという意見なんです。自衛隊の戦術というのは、「競争相手がいてかつ状況が不透明なとき」に最適化されたフレームワーク。だから合コンとかには活かせると思うんです。でも、経営みたいに「自ら課題を設定して資源を分配していくとき」にはやっぱり少し違う考え方が必要だなと。ただ、人を組織たらしめる要訣というのは、自衛隊の方がすごく上手に押さえていると思います。人が何に喜んで何に悲しむのか、なぜ組織に身を投じるのか、あるいはなぜ組織を離れるのかといったことに関しては、ものすごく勉強になることが多かったです。
具体的には今どのように活かしていますか?
例えば、うちでは1on1のときに三つの項目について話をするんですが、その一つが、今の会社の状況についてです。あなたが担当している業務の上段として、会社全体として長期的にこういったことを考えているよということを話します。要は「構想」を伝えるということなんですが、自衛隊の中では「命令」というコミュニケーションのフォーマットがあって、その第一項目が必ず「構想」なんです。まずは必ず全体構想。その上で上級部隊はこう考えていて、だから我々はこうする。そのために締め切りがここで、それまでにおまえはこれをしなければいけない。そういうコミュニケーションです。例えば、説明の最中にその人が爆撃を受けて動けなくなっちゃったら困るじゃないですか。そういうときに、みんなが全体の構想や上級部隊の方針をわかっていれば、最悪のケースでも自立的に動けるということなんです。コミュニケーションで伝えるべき情報の優先度を守りながら、しっかりと伝える場を作っています。
頭では理解できても実行するのがすごく難しいなという印象があります。いわゆるOKRみたいなものも、完全にやり切るのが難しい。自衛隊という組織がそういったことをやりきっているのがすごいですよね。
OKRをはじめとした過去のあらゆる組織フレームワークと自衛隊のフレームワークを比較すると、おそらくですが、ミッションの言語化とその共通知の作り方が圧倒的に違うと私は思っています。「何月何日に何を達成する」となったときのこの「何」の部分に誰一人として疑義を持たない状態ができているのが自衛隊で、それがすごい。普通はその状態を作るのにものすごいコミュニケーションコストがかかりますよね。その点、自衛隊では例えば「戦闘準備完了」という言葉が何を意味するのかを非常に細かく定義しています。かつ、テストで全部回答できて受からないといけない。だから、使われる言葉の意味の認識にブレが生まれず、全員がブレイクダウンできる状態になるんです。曖昧さというものを徹底的に排除して、目標(Objective)に一切疑義を持たせないということが、すごくよくできていると思います。
共通知はどう作るんですか?
例えば、今の話みたいなことをしっかりと学ばせる余裕があるんです。現場で属人的に教えるとかではなく、しっかりと体系化された教科書みたいなものがある。それを徹底的に勉強させてテストして、受かるまで反復させて、必ず合格してから部隊に投入するという、そういう余裕を持たせている。私は最初、ものすごく悠長だな・・と思いました。こんなにゆっくり時間をかけて勉強するの!?という感じですね。でも、実際に小隊長として現場に入ったときにその意味がわかりました。今すぐにでも救助活動に入りたいところなんだけど、でも、一人でも多くの人を助けるためには、必ず、事前にしっかりとしたブリーフィングをするんです。覚えておくべき事項のインプット、万が一のときの対策の確認などをしっかりと徹底した上で行動するんです。そうすることで全員が無駄なく統制された行動ができるようになる。一見悠長に見えるかもしれないですが、そういった余地こそが必要なんだということを何度も目の当たりにしました。
スタートアップの「まずやってみる」みたいな思想とはまたちょっと違う動き方ってことですよね。
この方法論がスタートアップとどう噛み合うのか?というところは私も注視してたんですが、有効に機能するときと機能しないときがあると思いました。競争相手がいて状況が不確定な場合においては、自衛隊のような軍の方法論が有効に機能すると思います。逆に、イノベーティブだったりクリエイティブだったりすること、予期せぬかたちで素晴らしい成果が生み出されることを期待するような状況では、この方法論はあまり機能しないと思います。そういうときには、いかにブレインストーミングをしてその自由なカルチャーを維持するか、その結果生み出されたものをいかに組織全体に反映するかという、それこそカルチャーの仕組みづくりの話が重要。このあたりはすごく難しいバランスですね。両方経験していないと味わえないおもしろさかなと思います。
状況に応じて、体制やマインドを切り替えられる組織がやっぱり強いですよね。
スタートアップを経験したことで、防衛領域との接近をいち早く直感
話を少し戻しますが、自衛隊を出た後はfreeeに行かれましたよね。freeeはどうでしたか?
私としては、ずっと憧れてきたスタートアップにようやく来たぞ!という感じでした。私が大学一年生のときにGoogle Mapが出てきて、それにすごく感動したのがスタートアップに興味を持ったきっかけでした。大学の図書館でGoogleにまつわる本を全部読みました。技術的には俺でもできそうじゃんなんて思ったりもしたんですが、一人の大学生がパソコンを並べて作ったものがあんなに大きな企業になって世界中にサービスを提供しているというストーリーは、やっぱりめちゃくちゃすごいなと。それで、一度でいいからこういうスタートアップで働いてみたいものだと思っていました。freeeはまさにGoogle出身の佐々木さんが社長の会社で、またいろいろな学びがありました。全然立ち回り方が違う環境。全体の構想が曖昧なまま全員がわーーっと動いたりとか。でもやっぱり、限られた時間で限られたことに対応しなくちゃいけないときには、スタートアップも自衛隊も似た特性を持つんだなと思ったりもしました。
freeeには二年在籍して上場も経験された。その後、起業するタイミングはどう決めたんですか?
一つは、freeeの上場。もう一つは、自分が何かマネタイズできる事業のタネを見つけること。それらが揃ったら起業しようと思っていました。freeeに入ってちょうど一年後くらいに、宇宙スタートアップなんかを支援するような個人事業も始めて、ずっとタネを探してました。なぜ宇宙かというと、自衛隊にいたときに米軍が「俺たちは民間の人工衛星を山ほど使ってこんなことをやるんだ!」という話をしに来たことがあって、アメリカではスタートアップが作ったプロダクトで宇宙開発してるのか!と、その話はだいぶ私をときめかせたんです。それで、軍とテクノロジーの組み合わせにさらにスタートアップっていう文脈が関わる時代になってきたんだなと直感的に感じていました。そして、防衛×スタートアップの領域ではまずは宇宙だなと。
最初は宇宙領域で事業を展開していたところから、防衛テックっていう言葉がまだなかった時期に防衛領域で事業を展開し始めたのは何がきっかけだったんですか?
今から二年くらい前、防衛省も民間のスタートアップの宇宙関連のアセットを使えるようにするぞという話が出てきた頃、お客様からお問い合わせがあったんです。当然、パランティアという会社が防衛テックというかたちで大きくなっていることは知っていましたが、ウクライナ戦争も大きな契機になって、防衛の世界が自分たちが思ってもみなかった時代に進みつつあると感じました。一つは、安全保障とテクノロジーが切っても切り離せないような時代に突入しつつあるということ。スタートアップと防衛って、世界中どこを見てももともとすごく遠い存在だと思うんです。でも実はそこに、イノベーションを起こすという意志を持った事業体とイノベーションを起こさなければならないという安全保障上のニーズが存在していて、幸か不幸か、噛み合わざるを得ない時代になりつつある。しかも、そんな中で日本という国は特別なカルチャーを持っている。つまり、軍隊が社会から少し離れたところにあるような世界観の現代国家であることを見据えたときに、ここから日本が国際社会にしっかりとコミットしていくためには、安全保障の領域へのスタートアップの関与と防衛のエコシステム構築が絶対であると。そんな話を、実際に防衛省にいる同期や先輩からも聞くようになったんです。
大きなモメンタムを感じたんですね。
あともう一つ、これはfreeeでも感じていたことなんですが、重厚長大な産業とテクノロジーがパチッと嚙み合わさったときにものすごく大きなイノベーションが起きることがある。例えば金融の世界でいうと、銀行とスマートフォンアプリですよね。その組み合わせによって大きな市場が生まれる。それと同じようなことが防衛領域にも起きて然るべきだし、今それができたら、それはもう日本が生み出した新しい価値になるはずなんです。スタートアップと国との間にいいカルチャーを作って、社会全体でその価値を共有できるようになったら、ものすごくわくわくしませんか?私は当時からそういうことが実現できると信じていて、やらない理由がないと思っていたんです。防衛テックという名称だけを見るとなんとなく堅そうなイメージですが、未来においては、防衛を一つの軸に社会全体が共創していて国際社会においても一目置かれる日本の姿が描けると思うんです。私は今、そこに向かっている気持ちです。
製造業からIT産業へ。防衛テックの課題と日本の安全保障のビジョン
現場にいる粟津さんだからこそ感じる、現在の業界トレンドってどんなものがありますか?
防衛省の中には、私たちが認識しているような課題感をほぼそのまま抱えている方々と、それとは全く違う課題感を持っている方々がいらっしゃって、両者の視点はだいぶ違うなと感じています。というのも、私たちの考え方というのは、テクノロジーはテクノロジーでもソフトウェアなどのデジタルのテクノロジーに立脚しているものですが、他方では、やっぱり防衛や安全保障という大きな目線で見たときにハードウェアや製造ラインといったものをイメージする方も多いからです。ITとしての課題か、製造業としての課題かという点です。これまでは後者が圧倒的だったと思いますが、この2-3年で急激に前者に目を向ける方が増えた印象です。
今の世界を見れば、デジタルやソフトウェアというテクノロジーに注力していかないと、日本という国全体が厳しくなっていくのは明らかですよね。
デジタルインフラ、通信やクラウド全般に関して、他国に依存的でいいんだっけ?という問いがあるのと同時に、一つ一つの性能や機能への些末なこだわりでなくて、将来的にはそういったインフラを自国でしっかりと構築・運用できているという自負を国際社会に表明できるようになることが大事なんじゃないかと思います。そのような認識を持った方々も増えてきています。
そういった状況の中で、かつ防衛テックと言われる企業群の中で、スカイゲートテクノロジズは今どのように見られていると感じますか?
残念ながら、防衛省の誰もが弊社の名前を聞いてピンとくるという状態にはまだ至っていないと思います。だから、より認知と理解を広げていかなければなりません。ただ、やはり課題感を共有できている方々には想像以上の期待をかけていただいているのかなとも感じます。日本から防衛テックを牽引できるような企業が出てこないのではないかという危惧からか、私たちの存在や取り組みを手放しに褒めてくださる方もいらっしゃいます。そこにはまさにイノベーションのジレンマ的なものが発生していて、防衛省や行政機関の中だけではワークし切れないということは事実としてあると思うんです。この点については、防衛という領域だから難しそうに見えるだけで、これまでにも金融だったり保険だったりとあらゆる産業で似たようなことが起きてきたはず。だとしたら、その防衛バージョンで弊社が旗振り役を担うことには蓋然性があるのではないかと思います。
どうして今そういうポジショニングを築けていると思いますか?
僭越ながら、一つは熱意と誠実さでしょうか。実際にあると思います。マーケットを見て強かに動いている部分は経営上あるわけですが、一方で、理解や共感を得ることが絶対的に必要なので、すごく言葉を選んでコミュニケーションをするとか手紙を書くとか、そういうことをしている意味はあると思っています。
粟津さんご自身のご経験から、日本の防衛のあり方においてしっかりとビジョンを描いているという点や、実際に熱意をもってアクションしているという点、それに、行政と民間それぞれのカルチャーやトンマナを理解した上でコミュニケーションができていることも大きいと思います。粟津さんの人柄や熱意はどうしても滲み出てしまうものだと思いますし。
起業家ってみんなそうじゃないですか?
粟津さんは特に滲み出やすい気がします(笑)
一応加えておくと、私は単に防衛への愛だけで動いているかというと少し違っていて、私たちのビジョンと行動の先にしっかりと生み出される価値があって、市場経済の中でも私たちのサービスが評価され成立するような世界観を目指しています。そうなることで本当の意味でのエコシステムが構築できると思いますし、ステークホルダーの喜びも生まれると思うんです。そこに私の喜びもあると思います。
粟津さんの最高の嬉しさや楽しさはそこにようやく訪れるんですね。
目指すのは、「シルクロードの商人」で構成されたハイブリッドカルチャー
もともとは、テクノロジーを得意とするプレーヤーが担うべき役割があるんじゃないかというところが防衛テックへのチャレンジの起点だったと思うんですが、そこから今、実際に防衛省ともやりとりを始めてサービスを提供しようとしている中で、スカイゲートテクノロジズを通して日本の防衛や安全保障というものをこうしていきたいというイメージはありますか?
社内で言語化しているのは「日本流の誠実な防衛テック」という目標です。やっぱりアメリカと同じことをしていても仕方ないですし、防衛のあり方や国際社会との関わり方も違うわけですから、日本は戦争に加担せずにしっかりと積み上げてきた歴史と先進国に引けを取らない技術を持った国として、それらを日本流に誠実に防衛に活かしていけるといいと思っています。あともう一つ、さらにキーワードを挙げるとすると、それは「イケてる防衛テック」です。
おぉ!具体的には?
例えばfreeeでも、バックオフィスをイケてるツールで固めて会計ができるようにしよう!というような話でよく盛り上がっていたんですよね。そこにはUI/UXの話があり、アプリケーションで繋がるネットワークの話があり、結果としてそこから生まれる生産性の高さや本業に集中できる喜びといったものが含まれていると思うんです。そういうのが「イケてる」だと思うんです。防衛にもその「イケてる」風を流せたらすごくいいんじゃないかなと思います。戦争には出ないけど、しっかりと国際社会に貢献しながらいい感じに防衛している「イケてる日本」。それは大きなバリューだし、そんな状態が実現できたら、私としては大成功だと思います。
そのためにスカイゲートテクノロジズとしてどういう役割を担っていきたいですか?
旗振り役ですね。こういったことを表立って言語化すると、負担や逆風もあると思うんです。特に防衛というのは、戦争忌避であったり軍事的な危機感だったり、距離を取るのが難しいジャンルの一つだと思っていて、ソフトウェアを持ち込んでいくことにも難しさがあると思います。そこで私たちが率先して旗を振っていくことで、私たちのエコシステムに入ってきてくれるような人たちも増えてくると思っています。
そこに向かっていく上で、今具体的にどんな課題がありますか?
課題は山ほどあります。やっぱり仲間集め=採用でしょうか。
以前とは比べ物にならないくらい、今は僕たちの旗に集まってきてくれるプレーヤーも多くなってきてますよね。
社内では「ムーブメントを起こせ」って言ってるんです。まだプレイヤーがいない、あるいはまだ産業が確立してない特定領域で圧倒的なポジショニングを取るには、多くの人たちを巻き込んだうねりというかムーブメントを起こしていく必要がありますよね。それをどう作っていくかというところが今一番の課題というか、やるべきことだと思っています。
今後どのような人を採用していきたいですか?
これも社内用語ですが、「シルクロードの商人」です。言葉やカルチャーが全くわからないところに旅をして、そのコミュニティに入り込んでいくような仕事なので、タフな商人のイメージをずっと持っています。防衛というのは異国みたいなもので、カルチャーも異なれば、考え方や価値観もドメイン知識も違う世界だと思うんです。そういったところにしっかりと根ざしていくような強さは、うちのメンバーにはマストだろうなと。
自衛隊とスタートアップのカルチャーや体制の違いの話もしましたが、スカイゲートテクノロジズとしてはどのようなカルチャーの組織をつくっていきたいですか?
目指したいのは、ハイブリッドなかたちです。イノベーションを起こすために必要な余裕や余力は持ちつつ、時には全員が一致団結して目標に向かうことができる統制のとれた体制が必要だと思っています。その有事と平時の切り替えが早い組織を目指しています。
※こちらは、2024/9/18時点の情報です